死にかけた私が姿を消したら、夫と息子が後悔し始めた第1話
第1話は約1,975文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
死の淵から這い上がった私は、長年離ればなれだった息子とようやく再会した。
彼は見違えるほど背が伸び、昔のような嫌悪をむき出しにすることもなく、後悔とすがるような眼差しで私を見つめていた。
「お母さん……お母さんのご飯が食べたい」
私は聞こえないふりで、がま口から淡々と小銭を探し出した。
息子は買い物カゴから落ちた長ネギを拾い上げた。
「生きていたのに、どうして連絡してくれなかったの?お父さんは昔のことは水に流し、もう気にしていないとずっと言っていたのに」
私は舌打ちし、会計をして立ち去ろうとした。
その瞬間、服の裾を強く掴まれた。
「お母さん……僕たちを見捨てるの?家ごと捨てるつもりなの?」
言葉を返さなかった。
久しぶりに呼ばれた「お母さん」の一言だけが、淡く胸を突き刺した。
海難事故の際、夫と息子は迷わず他の女を助け、私だけを荒波に残して去った。
あの瞬間、二人への想いも未練も、完全に消え失せた。
* * *
死の淵から這い上がった私は、長年離ればなれだった息子・古谷駿(ふるたに しゅん)とようやく再会した。
彼は見違えるほど背が伸び、昔のような嫌悪をむき出しにすることもなく、後悔とすがるような眼差しで私を見つめていた。
「お母さん……お母さんのご飯が食べたい」
私は聞こえないふりで、がま口から淡々と小銭を探し出した。
息子は買い物カゴから落ちた長ネギを拾い上げた。
「生きていたのに、どうして連絡してくれなかったの?お父さんは昔のことは水に流し、もう気にしていないとずっと言っていたのに」
私は舌打ちし、会計をして立ち去ろうとした。
その瞬間、服の裾を強く掴まれた。
「お母さん……僕たちを見捨てるの?家ごと捨てるつもりなの?」
言葉を返さなかった。
久しぶりに呼ばれた「お母さん」の一言だけが、淡く胸を突き刺した。
海難事故の際、夫と息子は迷わず他の女を助け、私だけを荒波に残して去った。
あの瞬間、二人への想いも未練も、完全に消え失せた。
私は服の裾を強く引き、彼の手を振り払った。
バッグを提げたまま振り返らず、古びた住宅街の路地奥へ歩を進めた。
駿は諦めず後をついてきた。
高級なスニーカーを履き、水たまりを大げさに避けている。
「お母さん、無視しないで」
背後の声は泣きそうに震え、少年の焦りがにじんでいた。
路地に入ると、壁はあちこち剥げ、黒ずんだレンガがむき出しになっていた。
駿は駆け寄り、眉をひそめて辺りを侮蔑するように眺めた。
「こんな場所に住んでるの?」
頭上の乱雑な電線や、古く傷んだ建物の佇まいを指し、吐き捨てた。
「お父さんへの当てつけ?こんなみすぼらしい暮らしをして、何が満足なのか?」
冷めた目で息子を見返した。
五年ぶりの彼は背が伸び、目元も口調も、完全にその父・古谷延之(ふるたに のぶゆき)そっくりになっていた。
「どいて」
駿は私の冷たい拒絶に驚いた。
昔なら彼の不機嫌一つで、私は必死に機嫌をとっていたものだ。
「どかない」
意地を張った駿は顔を強ばらせ、私のバッグを奪おうと手を伸ばした。
「家に帰ろう。お母さんが謝れば全部済むのだ。お父さんも許してくれるって。
優子さんだって、家族仲良く暮らそうと言ってるのに」
私は身をかわしてその手を拒み、マンションの入り口へ進み続けた。
駿は暗い入り口を覗き込み、立ち込めるカビ臭さに顔をしかめて後ずさった。
その時、路地入口から重たいエンジン音が響いた。
高級車のマイバッハが路肩に停まり、往来する車両が次々と避けていった。
駿の目が輝き、勢いよく走り出した。
「お父さん!お母さんがここにいる。帰ろうって言っても聞いてくれないの」
延之が車を降り、威圧的な雰囲気をまとってこちらへ歩み寄った。
藤田優子(ふじた ゆうこ)は彼の腕に寄り添い、従順な姿を見せていた。
延之は数歩離れた場所に立ち、見下す眼差しで私を睨んだ。
「蒼衣(あおい)、いい加減にしろ。生きていたのなら、なぜ五年間戻らなかった?
お前の訃報のせいで、古谷グループの株価がどれほど乱れたか、分かっているのか?」
十年愛した男を眺めても、私の心は凪いでいた。
海難事故で捨てられた瞬間、すべての想いは消えていた。
優子が柔らかい声でなだめた。
「延之、怒らないで。蒼衣さんも一人で長い間辛い思いをしてきたのよ」
そう延之をなだめてから、彼女はやんわり私に向き直った。
「もう意地を張るのはやめましょう。駿はここ数年ずっとお母さんを恋しがって、眠れない夜を過ごしてきたの」
駿は目を赤くして頷いた。
「優子さんは優しいけど、本当のお母さんじゃない。僕はお母さんと一緒にいたい」
私は二人の言葉を完全に無視した。
延之の苛立ちは募り、厳しく言い放った。
「今すぐ俺と帰れ。優子と駿の面倒を尽くせば、逃げ出した過去は不問にする。
古谷家の妻の座は、まだ残してやっている」
あまりの身勝手さに呆れ、抑えきれぬ冷笑が胸に込み上げた。