死にかけた私が姿を消したら、夫と息子が後悔し始めた第3話
第3話は約1,528文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のうち最後の章です。第4話は公式アプリで続きます。
スマホを開くと、優子の SNS 投稿が目に飛び込んできた。
五年前のクルーザーパーティー写真が上げられていた。
ビキニの優子は延之の腕に寄り添い、花のような笑みを浮かべ、駿は二人の間でゲーム機を握り、幸せそうに笑っていた。
ただ私だけ後ろ姿がぼやけ、グラスを片付けるため腰を曲げていた。
添えられたキャプションはあまりにわざとらしかった。
【荒波の試練をくぐり抜けた愛は、永遠に途絶えない】
コメント欄は羨望と祝福で埋まり、ぼやけた私を「お手伝いさん」と勘ぐる声さえあった。
写真を眺め、私は冷めた笑いを浮かべた。
過去の幸せをわざわざ晒すのは、明らかな私への挑発だった。
だがその狙いは完全に外れていた。
あの苦しい過去はとうに腐り果てたもの。今の私にとって、こんなものは捨ててしまった方が、かえって心が軽くなる。
その時、階下からノックが響いた。
覗き穴から確認すると、制服にランドセルを背負った駿が、分厚いアルバムを抱えて立っていた。
ドアを開けたくなかったが、ノックはやまず近所迷惑になり始め、仕方なく扉を開けた。
駿は私を見ると瞳を輝かせた。
「お母さん!」
私は玄関に立ちふさがり、入室を拒む態度を示した。
「何の用?」
駿は唇を噛み、アルバムを差し出した。
「家でこれを見つけた」
彼はアルバムを開き、古い写真を次々と指し示した。
「昔の写真を見て、やっと分かった。お母さんはいつも端に立ち、ただ僕とお父さんを見守っていただけだったって。
当時の僕は優子さんからもらったゲーム機に夢中で、お母さんのことを全然見ていなかった」
声を詰まらせ、瞳に哀願を滲ませていた。
「最近悪夢ばかり見ていた。荒れた海に落ちたお母さんが僕を呼ぶのに、僕は手を伸ばしても届かなかった」
涙が零れ落ちた。
「ごめんなさい。許して。一緒に家に帰ろう。
これからは言うことをちゃんと聞く。もう二度とお母さんを悲しませたりしない」
泣き崩れる駿を見ても、私の心には微塵も揺らぎがなかった。
五年前の私なら、彼の一滴の涙でさえ胸を締めつけられたはずだった。
だが今の私には、この子への執着も未練も、何も残っていなかった。
「駿。あの時、本当に掴めなかったのか。それとも、掴もうとしなかったのか?」
駿の泣き声は一瞬止まり、慌てて言い訳を重ねた。
「あの時は混乱していただけ!
優子さんが『お母さんは人魚だから泳げる、一人で帰れる』と言ったから、僕は信じていただけだ」
私は淡く笑った。
「駿、あのときあなたはもう六歳だった。人が海に落ちれば溺れ死ぬことくらい、わかるはずだった。
そんな童話みたいな嘘、本気で信じていたの?」
駿は顔を青くし、言い逃れようとした。
「信じたかっただけでしょう」
私は彼の言葉を遮った。
「あの瞬間、あなたは優子にしがみつき、彼女をママと呼んでいた。実の母の生死など、どうでもよかったのだ」
「違う!」
駿は耳を塞ぎ、激しく泣き叫んだ。
「僕はただ、お母さんが泳げると思っていただけ……」
「私は泳げない」
私は冷たく告げた。
「何年も一緒に暮らしてきて、実の母が水を苦手としていたことさえ知らなかった?
プールに連れて行くたびに、私は岸で見てるしかなかったじゃない。忘れたの?」
駿は言葉を失い、埋もれていた記憶が次々と蘇った。
いつも母だけが日傘の下で荷物を守り、海に入ることはなかった。
「優子さんの嘘だった」
駿は青ざめた顔で呟いた。
「お母さんは泳げる、大丈夫だって……」
私は呆れた気持ちで彼を見つめた。
「優子は嘘をつかなければ、私の居場所を奪えなかった。
駿、今のあなたの涙に、何の価値もない」
駿は打ちひしがれて去った。
その夜、私は悪夢にうなされた。
夢の中に広がるのは、あの冷たく暗い海だった。
クルーザーは座礁し、大きく船体を傾けていた。