そして、五年が消えた第2話
第2話は約2,597文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
リビングから聞こえてくる笑い声が耳障りで、私は主寝室に閉じこもって昼過ぎまで過ごした。
午後、山田が部屋をノックして入ってきて、桜が私の主寝室に泊まりたいと言っていたが、浩輔の母親に止められたと教えてくれた。
「九条家の後ろ盾があるあなたを完全に怒らせるわけにはいかないし、家のこともまだ頼らなきゃいけないから、と言っていました。それから……」
山田は子供の頃から私を見てきたから、私の性格をよく知っているのだ。だから、そこまで言うと、私の表情を窺うように見てきた。
私が何も言わないのを見て、山田は続けた。「どうせあなたは子供を産めないんだから、少しでも母親気分を味わわせてあげる代わりに妊娠中の費用は全てあなたが負担させよう、とか言っていました」
それを聞いて、私は顔が青ざめた。そして、袖を払いながら尋ねた。「他には何か言った?」
山田はさらに付け加えた。「あなたに子供がいないんだから、あなたの財産は全てこの子に相続されるべきだ、とも言いました……」
私は思わず笑ってしまった。藤沢一家は本当に抜け目がない。
すごく腹が立ったけれど、それを表には出さなかった。今はまだその時じゃない。
山田はこれからどうすればいいか聞いてきたけれど、私は笑っていつも通りでいいと答えた。
それから、山田が昼食を持ってきてくれた。私は食事が終わると、寝室の窓辺に腰をかけ、下の様子を見ていた。すると浩輔が桜を連れて出かけていくのがちょうど見えた。
ふっと想い返すと、5年前のあの午後、私もこうして、両親のところへ行って、浩輔と結婚させてほしいと泣きじゃくったな。
あの時、両親はすでに高橋グループの御曹司を婿候補に考えていた。
高橋グループはJ市でも有数の企業で、私は高橋悠(たかばし ゆう)とは幼馴染だった。両親は彼をとても気に入っていて、よく家に招いて一緒に食事をしていた。
だけど、私は悠に恋愛感情を抱いたことは一度もなかった。浩輔と出会ってから私は彼に夢中で、高橋グループとの縁談なんて考えられなかった。
私はいつも両親に、私たちの世代の結婚は私たち自身で決めさせてほしい、悠だって私を好きじゃないはずだ、と言っていた。
しかし、両親は、もし悠が私に好意を持っていなければ、いつも遊びに出かけた私を迎えに行って家まで送ったりなんてしないはずだと言っていた。
正直、あの時の私にとって、悠が私を好きかどうかはどうでもよかった。
浩輔と出会ったのは、大学入学式の学生会の歓迎活動の時だった。私と彼はほぼ同時に一枚の申込書に手を伸ばした。
あの時、彼はとても紳士的に私に「ごめん」と言って、申込書を譲ってくれた。
その日の彼はグレーのジャージを着ていて、背が高くて澄み切った眼差しをしていた。そして、笑顔がとても爽やかだった。
彼の綺麗な手に、手フェチの私は一瞬にして心を奪われた。
突然の出会いに、私はふいに彼の携帯番号を覚えてしまった。
別れを告げた後、私は彼のラインに友達追加の申請をした。私が名前を言うと、彼はためらうことなく「九条家のお嬢様か、お噂は兼ねがねきいているよ」と言った。
それからというもの、私は無意識に浩輔と街で出会えることを期待するようになった。しまいには彼と少しでも多く接点を持つために、学生会に入るために必死になった。
それは一目惚れだった。こうして私は常に彼の姿を追っかけるようになっていた。
結婚後、浩輔は自ら会社の経営を手伝うから、私に専業主婦になればいいと提案してきた。
私はそれを断らなかった。夫婦は一心同体であるべきだし、浩輔の家庭はそれほど裕福ではなかった。
彼が事業で成功したいと思っているなら、私は彼を支えるべきだと思った。
両親や親友には、よく考えるべきだと言われました。
結婚前から両親には、浩輔が私と結婚したのは単純に私を好きだからというわけではなく、私の家柄に惹かれている部分もある、とも言われました。
だけど、私はそんなことは全く気にしようとしなかった。彼が私を心から愛してくれていればそれでいい、と思ったから。
私と結婚した後、浩輔の両親は工場の仕事を辞めて、浩輔からもらう生活費で気楽な暮らしを送るようになった。
彼らは浩輔が社長になったことをあちこちで言いふらしたので、挙句の果て、藤沢家の親戚たちまでもが浩輔を頼ってくるようになった。
その親戚たちは自分の子供の結婚相手のことまで浩輔に根回しするように頼んできた。それも全部、J市での有力者を目当てにした頼みだった。
浩輔の家のそんな状況に、私は不安を感じなかった。うちはお金持ちだし、少しぐらい彼らを助けても問題ないと思っていた。
浩輔は知らないだろうけど、婚約式の前夜、悠が私のところにやってきて、株の譲渡契約書を渡してくれた。
それは、もし結婚生活がうまくいかなくなったら、浩輔と別れるのに役に立って欲しい、という思いで渡してきたものだった。
彼は拳を握りしめ、真剣な顔で言った。「お前の後ろ盾は九条家だけじゃない。俺もいる。もし浩輔がお前を傷つけたら、俺は絶対に許さない!」
私は考えすぎだと言って笑った。昔から私は自分の目に自信を持っていて、浩輔は私を裏切らないと信じていた。
今になって思えば、みんながしてくれた忠告は正しかった。だけど、当時の私は恋に盲目で、何も考えられなかった。
結婚後、私はどんなに彼に尽くそうと、彼はひたすら家事ができない、気が強い、他の友達の妻みたいに賢くないなどと、あれやこれやといちゃもんをつけてきていた。
私も当時は浩輔のことしか頭に無くて、彼のためなら、自分の性格まで変えようとしたのだ。
彼は毎日家に帰ってきた時に私がいることを望んでいたから、私はできるだけ家にいるようにして、料理のレシピを研究して、色々な料理を作ってあげた。
親友の安藤理子(あんどう りこ)にも、かつてショッピングや写真が大好きだった令嬢が、結婚した後は男のためにまるで別人みたいになったと言われた。
浩輔の両親は私のことを気に入ってくれていて、親戚の集まりでもいつも私のことを美人で優しいと褒めてくれた。
だから、家族の中でいちゃもんつけてくるのは浩輔くらいだった。
それを、私はいつも自分が至らなかったせいだと思っていたけれど、今になってようやく気づいた。結局、彼は私を利用していただけで、私を愛していなかった。だから、私の良さが分からないのも当然なのだ。