もう振り返らない第1話
第1話は約2,266文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
神栄市中の誰もが、天城怜司(あまぎ れいじ)が遥(はるか)を心の底から愛していると信じていた。
結婚して八年。遥は天城家の親族から「跡継ぎを産んでない」とずっと責められてきた。
怜司の祖母の静江(しずえ)は何度も怜司に離婚して新しい妻をもらうよう迫り、怜司は三度も家族会議で反抗し、血を吐いて倒れたこともあった。
「俺には遥だけなんだ。絶対に離さない」
そう言い切った怜司だったが、やがて静江は田舎から一人の女性を呼び寄せ、怜司に無理やり押しつけた。
女の名前は香坂沙羅(こうさか さら)。肌は荒れがちで頬は強く赤く、言葉には濃い訛りがある。
怜司は彼女に対して露骨に嫌悪感を示す。「こんな田舎者、遥の足元にも及ばない」
遥は沙羅のことなどまるで眼中にない。
こんな世間知らずの女が、自分みたいな名門の娘に敵うわけがない。
だが二ヶ月後、遥は屋敷の使用人たちが噂しているのを耳にする。
「あの田舎娘、なかなかやるよね。もう妊娠したんだって。これで静江さんも満足するんじゃない?」
「でも、不思議な話だよね。一発でできるなんて」
「怜司さん、あの子を本気で見てたことあった?これじゃまるでシンデレラだよ」
……
遥は拳をギュッと握り、爪が手のひらに食い込む。頭が真っ白になる。
* * *
神栄市中の誰もが、天城怜司(あまぎ れいじ)が遥(はるか)を心の底から愛していると信じていた。
結婚して八年。遥は天城家の親族から「跡継ぎを産んでない」とずっと責められてきた。
怜司の祖母の静江(しずえ)は何度も怜司に離婚して新しい妻をもらうよう迫り、怜司は三度も家族会議で反抗し、血を吐いて倒れたこともあった。
「俺には遥だけなんだ。絶対に離さない」
そう言い切った怜司だったが、やがて静江は田舎から一人の女性を呼び寄せ、怜司に無理やり押しつけた。
女の名前は香坂沙羅(こうさか さら)。肌は荒れがちで頬は強く赤く、言葉には濃い訛りがある。
怜司は彼女に対して露骨に嫌悪感を示す。「こんな田舎者、遥の足元にも及ばない」
遥は沙羅のことなどまるで眼中にない。
こんな世間知らずの女が、自分みたいな名門の娘に敵うわけがない。
だが二ヶ月後、遥は屋敷の使用人たちが噂しているのを耳にする。
「あの田舎娘、なかなかやるよね。もう妊娠したんだって。これで静江さんも満足するんじゃない?」
「でも、不思議な話だよね。一発でできるなんて」
「怜司さん、あの子を本気で見てたことあった?これじゃまるでシンデレラだよ」
……
遥は拳をギュッと握り、爪が手のひらに食い込む。頭が真っ白になる。
遥は離婚を切り出し、怜司は大雨の中で丸一日、ひざまずき続けた。
「遥、ごめん。あの日、俺は酔っていて、彼女をお前だと勘違いした……
安心して、すぐにでも彼女を追い出すから!」
怜司が寒さで体を震わせ、唇が紫色になっているのを見て、遥は心を許してしまった。
だが半年後、遥は病院で怜司が沙羅の妊婦健診に付き添う姿を見てしまう。
怜司は目を赤くしながら説明する。「おばあちゃんが妊娠のことを知って、自殺すると脅されたんだ。俺にはどうしようもなくて、彼女を郊外の別荘に隠した。
子どもが生まれたら、おばあちゃんに渡すだけだ。お前との生活には絶対に影響させない」
遥はもう一度、怜司を信じることにした。
しかし三日前、凶悪な拉致犯が沙羅を遥と間違えてさらっていった。
普段は「どうでもいい」と言っていた怜司が、犯人からの電話を受けて、取り乱した。
「いくらでも払う!沙羅には絶対に手を出すな!」
だが、犯人の要求は金ではなく、「天城家の奥さまの命」だった。
怜司は目尻を赤くしながら、遥の肩を掴んで必死に頼んだ。
「遥、頼む。沙羅を助けてやってくれ。彼女は妊娠してるし気が弱いんだ……無事に戻ったら、すぐにお前を助けに行くから、な?」
遥はその瞬間、すべてに気づいた。怜司が沙羅のことを最初は「田舎者」と呼んでいたのに、次第に「沙羅さん」とさん付けで呼ぶようになり、今ではすっかり「沙羅」と名前だけで呼んでいることに。
知らないうちに、沙羅は怜司の心に入り込んでいたのだ。
遥は苦笑いを浮かべた。「もし、私が行かなかったら?」
怜司の目が一瞬冷たく光った。「遥、沙羅が孕っているのは、天城家の跡継ぎだ。お前も一度くらいこの家跡継ぎのために貢献してくれ。
大丈夫だから。絶対にお前を救い出すから」
遥は鼻をすすり、震える声が途切れがちになる。
「もし……私が戻れなかったら?」
怜司は眉をひそめた。「遥!命がかかってるんだぞ。いい加減わがまま言うな!」
怜司のその決意を見て、遥の心は粉々に砕けた。
怜司に突き飛ばされ、遥は犯人のもとへ向かった。絶望の中で、目を閉じるしかなかった。
その瞬間、沙羅が怜司の胸に飛び込んできた。
「沙羅!」怜司の顔色が一変し、声が震えた。
「無事でよかった……」
沙羅は怜司の腕にしがみつき、弱々しく手を伸ばした。「怜司さん……私、あなたの子ども、守れるか不安で……」
怜司は一瞬で涙ぐみ、彼女を抱きかかえて走り出した。
「絶対に何があっても守る。絶対に!」
彼は急いで駆け出したせいで、拉致犯に押されていた遥の姿には目もくれなかった。
遥は硬いコンクリートの上に倒れ込んだが、もう何も感じなかった。
ぼんやりと、怜司がプロポーズしてくれた日のことを思い出していた。
彼は遥を強く抱きしめ、何度も何度も言った。「遥。俺は、絶対に誰にもお前を傷つけさせない」
……今思えば、どれほど滑稽な言葉だったろう。
遥は足を縛られて海へ投げ込まれ、どんどん沈んでいく。そのまま、意識が遠のいていった。