キンモクセイの下で、君を待っていた第1話
第1話は約2,314文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
離婚して5年目。私は、キンモクセイの木の下で、元夫の加賀谷修吾(かがや しゅうご)と再会した。
修吾はずいぶん痩せていた。けれど、身につけているものはどれも見るからに高価で、以前着ていたものの2倍以上はしそうだった。
「久しぶりだね。元気にしてた?」
(元気だよ。ちょっと退屈なくらい。修吾は?)
「会社は上場した。順調だよ。ただ、少し忙しい」
(そっか。それならよかった)
長い沈黙のあと、修吾はため息をついた。
「陽菜(ひな)。今年もキンモクセイが咲いたよ。いったい、どこへ行ったんだ」
透けた自分の身体を見つめながら、私はまた、彼の独り言に答えた。
(ここにいるよ――)
けれど、もう修吾にこの声は届かない。
* * *
ここに縛られて、もう4年以上になる。
遺体が火葬されたあと、私はここへ流れ着いた。
あの世から迎えに来た使いには、私のこの世への未練が強すぎて、連れていくことも、この場所から解放することもできないと言われた。だから、もう少し待て、と。
それから私は、来る日も来る日もこのキンモクセイの木の下にいた。修吾がここへやって来る、その日まで。
ここは私たちが出会った場所。そして、私たちはもう5年も会っていなかった。
初めて会ったあの日、修吾は身体に合わないスーツを着て、大学の研究会へ向かうところだった。
私はワンピース姿で、親友の江藤茜(えとう あかね)とキンモクセイの下で写真を撮っていた。
まさか男に絡まれるとは思わなかった。まして、彼が助けてくれるなんて。
修吾はその男を追い払った。全身擦り傷だらけだったのに、私と目が合うと顔を赤くした。
「困っている人を放っておけなかっただけだ。じゃあ、僕はこれで」
私はワンピースの裾をつまんで駆け寄り、彼の前に回り込んだ。「ねえ、連絡先くらい交換しない?今度、お礼にご飯をごちそうさせて」
修吾はしばらく照れくさそうに笑っていた。私が不思議そうに眉を上げると、彼はようやく我に返ったようにスマホを取り出し、LINEのQRコードを開いた。
彼があらためて研究会へ向かったときには、もう遅刻していた。サイズの合わない革靴で、足を引きずるように走っていった。
私はあの瞬間、彼に心を奪われた。それから少しずつ距離を縮めていった。
今の修吾は、身体にぴたりと合うイタリアンスタイルのスーツをまとっている。革靴も見るからに上質で、以前よりずっと落ち着いた大人に見えた。
私はこっそり、その手を取りたいと思った。けれど、横から声が割り込んだ。
「社長、そろそろ行かないと。奥様からまた連絡が来ますよ」
秘書はどこか焦っているようだった。
私は伸ばしかけた手を引っ込め、「奥様」という言葉を聞き逃さなかった。
この5年の間に、修吾は再婚していたんだ。
胸がきゅっと痛んだ。でも、すぐに気持ちを切り替えた。
こんな日のために、何度も何度もこうなる場面を想像して、心を慣らしてきた。平気。ちょっと不意を突かれただけ。
きっと優しくて、きれいな人なんだろうね。まあ、私に負けないくらいには。
ぼんやりしているうちに、私の魂は修吾に引っ張られ、そのまま一緒に車へ乗り込んだ。
道中、修吾はずっと気だるそうだった。目の奥には、隠しきれない疲れがにじんでいた。
(疲れてるなら、少し眠ったら?)
病室にいた頃、母もいつもそう言ってくれた。
今度は、私が修吾に言う番だ。
何かを感じ取ったみたいに、修吾はゆっくり目を閉じた。そして、本当に眠ってしまった。
唇がかすかに動いていた。私の名前を呼んでいるようだった。
「陽菜、陽菜」
(うん。ここにいるよ)
眠り込んだ修吾を見て、秘書は驚いたようだった。修吾の鞄の口からは、受け取ったばかりらしい睡眠障害の診断書が覗いていた。
【重度の睡眠障害と診断。投薬治療が必要なため、薬を処方している】
自宅の駐車スペースに着いても、秘書は修吾を起こすのが忍びなかったのか、そのまま眠らせていた。
私は唇を尖らせながら、隣で眠る修吾の顔をじっと見つめた。透けた指先で何度も眉や目の輪郭をなぞっていると、結婚して、毎朝彼の隣で目を覚ましていた頃に戻ったような気がした。
そのとき、突然、車のドアが開いた。
外に立つ女は、鋭い目で車内を見回した。まるで、見えないはずの私に「近づくな」と警告するみたいに。
その顔を見た瞬間、私は固まった。
茜。私の親友だ。
どうして、茜が?
茜は修吾を揺り起こした。声には不満がにじんでいた。
「こんな昼間から寝てたの?そんなに疲れてる?まさか、私に隠れて陽菜を探しに行ったんじゃないでしょうね?」
修吾は眉間をもむと、とっさに言い返した。
「あれだけ卑劣なことをして僕を裏切ったんだ。探しに行くわけがないだろう」
私はその場で凍りついた。
私が、卑劣だって。
そうだった。地縛霊として過ごすうちに、いちばん大事なことを忘れていた。
あのとき修吾を捨て、海外へ行くしかないほど追い詰めたのは、私だ。
誰よりも修吾を恋しく思う資格がないのは、私だった。
あの頃の修吾は、私の前にひざまずいて、何度も何度も私にすがった。
「陽菜、わざと僕を怒らせようとしてるんだろう?全部なかったことにしよう。もう一度、やり直さないか?」
それでも私は彼を突き放し、振り向いて別の男を抱きしめた。そして、一生でいちばん残酷な言葉をぶつけた。
「お金もないくせに、私に何ができるっていうの!そんなふうにすがりつくなんて、本当に卑しい!
私は離婚したいの!まだわからない?」
修吾は絶望した目で私を見つめた。しばらく口ごもった末、ようやく一言だけ絞り出した。
「わかった」
修吾が私を恨み、未練なんて残さないこと。それこそ私が望んだことだったはずなのに。
今さら、どうして後悔してるんだろう。