キンモクセイの下で、君を待っていた第2話
第2話は約1,833文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
私は泣きそうな顔で、無理やり笑った。
幸い、魂に涙はない。
修吾について家へ入ると、私の身体は意思に反して、部屋に飾られた遺影の前へ吸い寄せられた。
遺影に写っていたのは、修吾の母、加賀谷静江(かがや しずえ)だった。まさか、彼女まで亡くなっていたなんて。
あの頃、治る見込みのない病気だと診断された私は、修吾に話す間もなかった。先に診断書を見つけたのは、静江だった。
耳をつんざくような甲高い声が、今もよみがえる。
「陽菜さん、修吾と離婚してちょうだい。うちには、あなたの治療費まで出す余裕なんてないの!」
あのときの私も、今みたいに泣きそうな顔で笑っていた。
結婚したばかりの頃は、「陽菜さんは、うちの福の神ね」と言ってくれたのに。
「治療にお金を出してもらうつもりはありません。自分のお金を使います。私はただ、最後まで修吾のそばにいたいんです……」
「それも駄目よ!修吾を妻に先立たれた男になんてできないわ。そんなの縁起が悪いし、不幸がつきまとうもの。この先ずっと『妻に不幸をもたらす男』だって言われるのよ!」
静江は昔から、こうした迷信を信じ込む人だった。私は何も言えず、その場に立ち尽くした。
病気を告げられたばかりで、どうしたらいいのかわからなかった。それに、修吾まで妙な噂を背負わされるのは嫌だった。彼の人生は、まだずっと先まで続くのだから。
私は震えながら、もう頷きかけていた。
それでも私が断るのを恐れたのか、静江はその場にしゃがみ込み、今度は弱い声で私にすがった。
「陽菜さんはきれいだし、ご実家だってうちよりずっと裕福でしょう?お願いだから、うちの修吾を自由にしてあげて。ね?
あの子は奨学金つきの留学が決まったばかりなの。あなたが病気だと知ったら、勉強に集中できると思う?
うちは貧しいし、私は女手ひとつで、力の限りあの子を育ててきたの……」
静江にそう聞かされて初めて、修吾の留学が決まった日と、私に診断が下った日が同じだったと知った。
静江は、もう長くない私に、修吾の未来を邪魔させたくなかったのだ。
私は彼女を恨まなかった。ほんの少しも。
ただ、人を雇って、浮気しているように見せかけたあの日、私はまともに顔を上げられず、ずっと泣いていた。
なんとも昼ドラじみた修羅場だった。
でも修吾。あなたを傷つけなければ、私たちは別々の道を歩けなかった。
あの日は、相手役を頼んだ男性まで手を震わせていた。
「やりきれないな……この芝居の金は受け取れないよ。
陽菜さん、治療がうまくいくことを祈ってる。いつか復縁したくなったら、僕に連絡して。きちんと事情を説明するから」
けれど結局、その連絡先を使うことはなかった。
あの日、修吾は私のために用意した誕生日ケーキを持っていた。
私の誕生日を祝い、そのついでに、私も一緒に留学先へ行けると伝えるつもりだった。私を置いてはいかない、と。
それなのに私は、ケーキを床に叩きつけ、見る影もなく潰した。
修吾は目を真っ赤にして、私と別の男がキスする姿を見つめていた。
そして修吾は離婚届に署名し、そのまま私の前から去った。
私が死ぬまで、修吾が帰国することはなかった。
そして今、帰ってきた修吾のそばには茜がいる。
茜は甘えるように、修吾の胸に寄りかかった。
「昔、陽菜が別の男と寝てるところを、私はこの目で見たの。ちゃんと忠告したのに、あなたは信じなかった。結婚して、自分の目で見るまで諦めなかったじゃない。
あなたが今年帰国してから、ずっと心配だった。まだ陽菜を諦められなくて、探しに戻ったんじゃないかって。
でも、あの子はプライドが高いから。もっとお金持ちを捕まえたなら、わざわざ帰ってこないでしょうけど」
茜の言葉に、私は目を見開いた。
焦った私は、修吾の目の前をぐるぐると飛び回った。
私がいつ、そんなことをしたっていうの?あの芝居だって、相手役とはキスしているように見せただけなのに!
茜は、私たちが結婚する前から、修吾にそんな嘘を吹き込んでいたんだ!
修吾は長いこと黙っていた。ようやく口を開いたとき、その声は少しかすれていた。
「あいつを探す理由なんてない。あいつはもう、僕には何の関係もない。思い出すだけで吐き気がする。
あいつのことを気にする暇があるなら、自分の身体をもっと大切にしろ」
頭から冷水を浴びせられたようだった。
茜はまだ疑っているようだったが、ようやくおとなしくなり、自分のお腹を撫でた。
「ならいいの。だって私、この子にパパの故郷を見せるために、帰ってきたんだから」