キンモクセイの下で、君を待っていた第3話
第3話は約2,065文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のうち最後の章です。第4話は公式アプリで続きます。
茜は妊娠していた。
ふくらんだお腹を見つめていると、身体の芯が冷えていくようだった。
修吾が幸せな家庭を築いたという現実なら、ちゃんと受け入れられると思っていた。
でも、その相手が茜だということだけは、どうしても受け入れられなかった。
しかも茜は、ありもしない話まででっち上げていた。
私は恨めしい気持ちで修吾のあとについて回った。
まさか、信じたんじゃないでしょうね?
(修吾!少しは頭を働かせてよ!私がそんなことするわけないでしょう?)
修吾には私の焦りなど聞こえない。仕事がひと段落すると、彼は高級SUVを走らせ、私が昔暮らしていた家へ向かった。
その家は、とうに誰も住まなくなっていた。
母は私の死と向き合えず、かといって貸し出す気にもなれず、ずっと空き家のままにしていた。室内には埃が分厚く積もっている。
修吾は古びた玄関の前に立ち、途方に暮れた子供のようだった。
人が通るたびに呼び止めては尋ねた。
「すみません、水瀬陽菜(みなせ ひな)を知りませんか?以前ここに住んでいたんです」
「さあねえ。年を取ると物忘れがひどくてね。この家なら、ずっと前から誰も住んでいないんじゃないかい」
何人にも聞いて回ったが、誰も覚えていないと言った。
もう5年だ。わざわざ私のことを覚えている人なんていない。まして、今このマンションに住んでいるのは年配の人ばかりだ。
手がかりを失った修吾は、管理会社を訪ね、母の今の電話番号が分からないか聞くしかなかった。前の番号はとっくにつながらなくなっていた。
電話番号を手に入れた修吾が、宝物でも見つけたような顔をするものだから、思わず吹き出してしまった。
修吾、やっぱり私のことが気になってるんじゃない。茜の前ではあんな強がりを言ってたくせに。
修吾は電話を強く握りしめ、ひどく緊張していた。やがて通話がつながると――
「お義母さ……おばさん、ご無沙汰しています。覚えていらっしゃいますか?加賀谷修吾です。陽菜に直接会って、話したいことがあるんです……」
受話器の向こうで、母は長いこと黙っていた。聞いている私まで緊張してくる。
私と母は、絶対に口を滑らせないと約束していた。
予想どおり、母は彼を拒んだ。
「陽菜は今、幸せに暮らしています。もうあの子に関わらないでください」
そう言うと、母は修吾の返事も待たずに電話を切った。
修吾の体はその場で固まった。しばらくして、ようやく車を出した。
彼は煙草をくわえていた。立ちのぼる煙の向こうに、晴れない苛立ちがにじんでいる。
私は不満げに彼をにらんだ。煙草の匂いは大嫌いだ。修吾は昔、1本も吸わなかった。それどころか、にやにやしながら「煙草を吸わない僕って、いい男だろ?」なんて言っていたものだ。
しばらく吸ったあと、修吾はふと手を止めた。煙草をもみ消し、窓を開けて空気を入れ替える。
車を止めると、後部座席に置いてあるものへ目を向けた。
そこでようやく、箱の中に上質なウィッグが入っていることに気づいた。
ウィッグは煙草の匂いがつきやすく、いったん染みつくと、洗ってもなかなか落ちない。
昔、一緒に買い物へ行くたび、私はこのことをしつこいほど修吾に愚痴っていた。
私はウィッグを見つめたまま、ぼんやりと立ち尽くした。
入院していた半年間、治療のせいで髪はごっそり抜けていった。
そのうち、どれだけ嫌でも全部剃るしかなくなり、ウィッグをかぶるようになった。
病院で、修吾の親友である成田誠(なりた まこと)に偶然会ったことがある。
あのとき、私は病衣を着ていなかった。きれいに着飾って写真を撮り、SNSに載せるつもりだった。私が心変わりをして、楽しく暮らしていると修吾に信じてもらうために。
ところが、誠はわざと私にぶつかってきた。転びそうになり、ウィッグまで外れてしまった。
誠は一瞬目を見張ると、短く息を吐いた。
「へえ、優等生がずいぶんイメチェンしたな。
まさか、そのおっさんはこういう中性的な格好が好みなのか?男も女もいける口だったりしてな」
私が何も言わずにいると、誠はウィッグを踏みつけ、靴底で何度も踏みにじった。
怒るのも無理はない。修吾があまりにも不憫で、代わりに腹を立てていたのだ。
だから、母が駆けつけて警備員を呼ぼうとしたとき、私はその手をつかんで頼み込んだ。
「もういいよ、お母さん。私は平気だから。もういいの……」
誠が去ったあとも、私は泣かなかった。代わりに母が私を抱きしめ、いつまでも泣き続けた。
だから今、修吾はあのことを謝ろうとしているの?
もう、そんな必要ないのに。
修吾はウィッグを大切そうに箱へ戻した。
そして鼻を近づけ、煙草の匂いが移っていないか確かめた。
私は小さく笑った。
だが次の瞬間、彼は誰かに連絡し、母の現在の住所を調べさせた。
慌ててスマホを奪おうと手を伸ばしたけれど、やっぱり触れることはできない。
電話の相手は、少し怪しんでいるようだった。修吾は落ち着き払って説明した。
「来週、僕と茜は汐見市で改めて結婚式を挙げる。
もう吹っ切れたんだ。だから陽菜を僕と茜の式に呼びたい。それくらい構わないだろう?」