クズ旦那と別れた私は愛を見つけた第1話
第1話は約3,462文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
桜井玲司(さくらい れいじ)が自分を愛することはない――
その現実をようやく受け入れた桜井千歌(さくらい ちか)は、離婚届を提出し、息子の真人(まさと)を連れて桜井家を去った。
ところが、これまで冷え切っていた玲司の態度が、その日を境に一変する。
毎日のように車で待ち伏せし、復縁してほしいと頭を下げる。仕事の合間はすべて真人との時間にあて、誕生日でもないのに贈り物を用意し、親子を喜ばせようとした。
さらには二人を守ろうとして犯人に刃物で刺され、生死の境をさまようほどの重傷まで負った。
息子の「パパを許してほしい」という願いもあり、千歌は少しずつ心を開いていく。そしてついに、復縁を受け入れた。
だが、復縁の手続きを終えた帰り道、千歌と真人は、大きな交通事故に巻き込まれた。
十数時間に及ぶ緊急手術の末、千歌は腎臓を一つ失い、真人は両目の光を奪われた。
そして事故の翌日。病院の廊下を歩いていた千歌は、真人の手を引いたまま医師の控室の前を通りかかる。
半開きの扉の向こうから、彼女はとある秘密を聞いてしまった。
* * *
桜井玲司(さくらい れいじ)が自分を愛することはない――
その現実をようやく受け入れた桜井千歌(さくらい ちか)は、離婚届を提出し、息子の真人(まさと)を連れて桜井家を去った。
ところが、これまで冷え切っていた玲司の態度が、その日を境に一変する。
毎日のように車で待ち伏せし、復縁してほしいと頭を下げる。仕事の合間はすべて真人との時間にあて、誕生日でもないのに贈り物を用意し、親子を喜ばせようとした。
さらには二人を守ろうとして犯人に刃物で刺され、生死の境をさまようほどの重傷まで負った。
息子の「パパを許してほしい」という願いもあり、千歌は少しずつ心を開いていく。そしてついに、復縁を受け入れた。
だが、復縁の手続きを終えた帰り道、千歌と真人は、大きな交通事故に巻き込まれた。
十数時間に及ぶ緊急手術の末、千歌は腎臓を一つ失い、真人は両目の光を奪われた。
そして事故の翌日。病院の廊下を歩いていた千歌は、真人の手を引いたまま医師の控室の前を通りかかる。
半開きの扉の向こうから、彼女はとある秘密を聞いてしまった。
「桜井社長が計画した交通事故、本当に完璧だったな。警察もまったく不審に思っていないらしい」
「でしょうね。聞いた話じゃ、幼馴染の日暮奈帆(ひぐれ なほ)さんとその息子さんが交通事故に遭って、一人は腎臓移植が必要になり、もう一人は角膜移植が必要になったとか。
でも適合したのが千歌さん親子だけだったそうだよ。だから桜井社長はわざわざ復縁を迫ったんだろうな。
再婚して家族になれれば、本人の同意がなくても手続きができる。いやあ、そこまでして日暮さんを助けたいなんて、本当に彼女が大切なんだな」
「千歌さんたちも気の毒だよ。自分たちが利用されたことも知らないままなんだから。今、桜井社長が304号室で日暮さんに付き添ってることさえ知らないでしょうね」
千歌の全身から血の気が引いた。足元が揺らぐ。
耳に入った言葉を、脳が理解することを拒んでいる。あの事故が――玲司の仕組んだものだと?
復縁を求めてきたのも、愛情ではなく目的を果たすためだったのか。
壁に手をつきながら、千歌はふらつく足を必死に前へ運んだ。やがて医者たちが言っていた304号室の前に辿り着く。
扉はわずかに開いていた。その隙間から、聞き覚えのある声が流れてくる。
「玲司、千歌さんたちのところへ行ってあげなくていいの?」奈帆の柔らかな声だった。「彼女はあなたの妻だし、真人くんだってあなたの実の息子なんだから……」
「必要ない」玲司は即座に言い切った。その声音は、ぞっとするほど冷たい。「あの二人の役目はもう終わった」
千歌の呼吸が止まる。
「埋め合わせはする。これから先、一生不自由なく暮らせるよう面倒を見るつもりだ」わずかな沈黙のあと、玲司の声は不意に柔らかくなった。「だが、それだけだ。奈帆、お前もわかっているだろう。俺が愛しているのは、お前なんだって」
奈帆が小さく息をついた。「でも、真人くんはあなたの……」
「あの子よりお前の息子が大事だ」言い終える前に、玲司が遮る。その声は低くて、迷いがなかった。「愛するお前が大切にする相手を、俺も大切にする。だから、お前の息子は、当然あの子より優先する」
千歌はとっさに口を押さえた。頬を伝う涙だけが、音もなく落ちていく。
玲司が自分を愛していないことくらい、ずっと前から知っていた。
それでも――まさか彼が、自分の血を分けた息子に対してもここまで残酷になれるなんて思いもしなかった。
玲司と奈帆は幼なじみで、小さい頃から一緒に育った。
玲司は名家に生まれ、近寄りがたいほど誇り高い男だ。そんな彼の隣で、奈帆はいつも穏やかに微笑んでいた。
そうやって一緒に長い年月を過ごした二人は、誰もが認めるお似合いの存在だった。
その頃の千歌は、玲司の秘書だった。
だからこそ知っている。玲司がどれほど奈帆を愛しているのかを。
彼は奈帆を本当に宝物のように扱っていた。彼女のために街中で三日三晩花火を打ち上げたこともある。
グループ傘下の新ブランドには彼女の名前を冠し、オークションでは高額な宝石を次々と落札しては奈帆に贈った。
惜しみなく愛情を注ぎ、彼女を何よりも大切にしていた。
けれど奈帆の心は別の人に向いていた。彼女は玲司の想いを受け入れず、初恋の相手とともに海外へ渡り、そのまま結婚した。
奈帆を失った玲司は、長い間酒に溺れた。そしてある夜――酔い潰れた彼は人違いをしたまま、千歌を抱いたのだ。
その一夜で、千歌は真人を身ごもった。妊娠がわかると、玲司の祖母がすぐに話をまとめ、二人は結婚することになった。
だが、結婚はしたものの、玲司は五年間、千歌に視線を向けることすらほとんどない。
真人が生まれた日も、彼は分娩室の前に姿を見せなかった。
それどころか、真人が自分を「パパ」と呼ぶことさえ許さなかった。
だから千歌は諦めたのだ。この人の心は、一生自分には向かないのだと。
ところが離婚した途端、玲司はまるで別人のように変わった。
執拗なほどに復縁を求め、必死に追いかけてきた。彼女を助けるために命さえ落としかけた。
一命を取り留めた玲司が千歌と真人を抱き上げ、今まで聞いたことがなかった優しい声で言った。「愛してる。頼む……許してくれないか?」
真人はその夜、興奮してなかなか眠れなかった。小さな腕で千歌の首にしがみつきながら、嬉しそうに囁いた。「ママ、パパがぼくたちのこと愛してるって言ってたよ。もう許してあげてもいいんじゃない?」
あの言葉に千歌は心を動かされた。
玲司はようやく過去を振り切り、本当に自分たちを家族として受け入れてくれたのだと思った。
けれど違った。全部……嘘だった。
復縁して欲しいと言ったのは、彼女たちをあの交通事故に巻き込むために。堂々と千歌の腎臓を奪い、真人の目を奪うためだった。
その時、隣の真人も激しく震えた。
――すべてを聞いてしまったのだ。
「ママ……」か細い声が震える。「ぼくの目……本当にパパが取ったの……?」
その一言で、千歌の胸は無数の針で刺されるようだった。
事故の日のことが脳裏によみがえる。
血まみれになった真人を抱きかかえ、玲司が病院へ駆け込んだ姿。「息子を助けてくれ!」と声を枯らして叫んでいた姿。手術室の前で一晩中ひざまずき、真人の目を何としてでも治して欲しいと医師に懇願していた姿。
あれほど取り乱していたのに、全部、演技だった。
千歌はもう耐えられなかった。真人を抱き上げると、その場から駆け出す。
人目を避けるように非常階段へ飛び込み、薄暗い踊り場でようやく足を止める。涙が次々とあふれ、止まらなかった。
「真人。もうあの人は、あなたのパパじゃない。これから先も、二度とパパにはならない。
ママが連れて行くから、遠くへ行こう。
あなたの大好きなヒーロー映画みたいに、新しい名前で、新しい人生を始めるの。
あの人が絶対に見つけられない場所で、二人で暮らそう、ね?」
真人はぎゅっと首にしがみついた。小さな身体はまだ震えている。「じゃあ……ヒーローは……新しい目ももらえるの?」
千歌の涙がぽたりと落ち、真人の柔らかな髪を濡らした。「もらえるよ。ママが約束する、絶対にまた見えるようにしてあげるから」
窓の外へ視線を向ける。
その瞬間、千歌の中で、一つの計画が形になる。
玲司がそこまで奈帆を愛しているのなら――見届けてもらおう。
自分と真人が最愛の彼女に、「殺された」瞬間を。