仰ぎ見ても、届かぬ月第1話
第1話は約1,803文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
ウェディングドレスを脱いだばかりの結婚式の夜、藤堂拓海(とうどう たくみ)は酔った勢いで私、水瀬結月(みなせ ゆづき)を背後から抱きしめてきた。
「結月、やっとお前を俺のものにできたな。本当に幸せだよ」
振り返って何か言おうとするより早く、熱を帯びた彼の指先が私の背筋をそっとなぞった。
背骨のくぼみに沿ってゆっくりと指を滑らせ、最終的にブラジャーのホックがあるべき位置でその動きを止める。
指先で何度か探るような仕草を見せた後、拓海は酔いの回った舌足らずな声でぼやいた。
「あれ、ホックがない」
その言葉を聞いた瞬間、全身がサッと凍りついた。
拓海と出会った時、私はすでにパーソナルトレーナーとして5年間働いていた。
動きやすいように、働き始めた頃からずっとスポーツブラを愛用している。だから、彼が探しているようなホックなどあるはずもないのだ。
その瞬間、私ははっきりと悟った。彼は不倫をしているのだ、と。
拓海は何度も寝言を呟くと、そのまま深い眠りに落ちた。私は身を乗り出し、彼の枕元のナイトテーブルからスマホを手に取った。
ロック画面を解除するまでもなく、メッセージ通知が目に飛び込んできた。
【どうだった?結婚初夜に奥さんに向かって私の名前を呼ぶの、スリル満点だったでしょ?】
* * *
あっけにとられているうちに、背後から拓海にスマホを奪い取られた。その声にはまだ深い酔いが混じっていた。
「結月、俺は本当にお前を愛してるんだ。賭けに負けたとしても、お前を悲しませたくなかった。お前に向かって元カノの名前を呼ぶなんて、そんなことできるわけないだろ?」
背後からは彼の熱い体温が伝わってくるのに、私の体は芯から冷え切っていた。
拓海は甘えるように私の耳たぶを軽く甘噛みした。
「結月、なんで黙ってるんだよ」
長い沈黙の後、ようやく自分の声が喉から絞り出された。ただ、口にした言葉はひどく震え、早鐘のような心音がそのまま声帯を震わせているかのようだった。
「……西園寺真由(さいおんじ まゆ)とは、もうずっと連絡を取ってないって言ってたよね?」
拓海は体を起こすと、私の顎を掴み、無理やりこちらを振り向かせた。
「でもさ、お前の顔を見てると、どうしても真由を思い出しちゃうんだよ」
「特にお前が眉をひそめた顔なんて、あいつと瓜二つなんだもん」
この上なく優しい口調で、私の心をズタズタに引き裂くような言葉を次々と口にする。
「当ててみようか……どこで気づいた?ブラのホックか?
実を言うと、俺もお前のそういうところにずっと不満があったんだよな。
お前も真由みたいに、もっと女らしければよかったのに。
そう考えると、あいつは俺たちのキューピッドみたいなもんかもな。
だって、真由がいなかったら俺はお前を選んでなかったわけだし」
私は信じられないものを見る目で彼を睨みつけた。
「拓海、この嘘つきっ……!」
彼はわずかに眉をひそめたが、すぐに満足げな笑みを浮かべた。
「そう、それ。怒った顔はもっと真由に似てる」
言いたいことだけを言い放つと、拓海はほどなくして再び寝息を立て始めた。
私は何かに取り憑かれたように再び彼のスマホを手に取り、真由とのLINEのトーク画面を開いていた。
拓海と付き合い始めた当初から、彼には高校から大学にかけて長い間交際していた元カノがいることは知っていた。
破局の理由もよくあるありふれたもので、一方が家庭を望み、もう一方がキャリアを優先したというだけの話だ。
しかし交際中、拓海は「真由とはとっくに綺麗さっぱり縁を切った」と何度も私に誓っていた。
だが今、どれだけスクロールしても底が見えないトーク履歴を目の当たりにして、ずっと騙されていたのだと痛感した。
スマホを握りしめる指は血の気が引いて白くなり、関節が軋むほどの痛みが走る。
混濁する意識を引き戻したのは、突然の手元の振動だった。拓海からの返信がないことにしびれを切らしたのか、画面の向こうの真由からさらに数件のメッセージが届いたのだ。
【やっぱり呼べなかったんでしょ?】
【じゃあ今回の賭けはあなたの負け】
【ハネムーンは私と行く約束だからね】
……
画面に並ぶメッセージを呆然と見つめていると、ポツリと画面に雫が落ちた。その時初めて、自分が泣いていることに気がついた。
なすがままに声を殺して泣いた後、私は決意した。明日、絶対に婚姻届を提出しないと。
最初から嘘で塗り固められていたこんな恋、もう未練はなかった。