仰ぎ見ても、届かぬ月第2話
第2話は約1,926文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
翌朝、私は拓海のスマホのバイブ音で目を覚ました。
昨夜はよほど心身が疲弊していたのだろう。意識が戻ると、私は2人のスマホを抱え込むようにして眠っていた。
画面にメッセージ通知がポップアップしたが、内容を確認するより早く、背後から伸びてきた手にスマホをサッと抜き取られた。
拓海は寝返りざまに私を腕の中へ引き込むと、猫の首根っこでも掴むようにうなじを押さえつけ、そのまま自分の胸元へと押し当ててきた。
「結月、ずいぶん早起きだな」
まだ眠気を引きずった気だるげな声は、昨夜の出来事など初めからなかったかのように平然としていた。
私は身動き一つせず、返答もしない。
私の体のこわばりに気づいた拓海は上体を起こし、品定めでもするように私の顔をじろじろと見つめた。
やがて彼は小さく鼻で笑う。
「まだ昨日のことで怒ってるのか?」
首の後ろを掴む拓海の指にグッと力がこもる。痛みを感じるほどではないが、顔を背けて視線を逸らすことを封じるには十分な力だった。
「わかってるだろ?昨日は俺たちの晴れ舞台だったんだぞ。
嬉しくてつい飲みすぎただけで、全部ただの酔っ払いの戯言だよ。
だから、いい子にして。もう騒ぐのはやめてくれ」
ひどく軽薄なその言葉は、まるで聞き分けのないペットをあやしているかのようだ。
交際を始めたばかりの頃の記憶が唐突に蘇る。あの時も彼はこうして笑いながら私の首の後ろを弄り、「僧帽筋のラインが綺麗だ」と褒めてくれた。
当時の私は、それが恋人同士の親密なスキンシップなのだと信じて疑わなかった。
だが、今は痛いほどわかる。彼はただ、私と真由の首の感触が同じかどうか、自分の手で確かめていただけなのだ。
私は彼の手を振り払い、ベッドから身を起こした。
「婚姻届を出さないわ」
部屋に短い静寂が落ち、拓海の顔からスッと笑みが消え失せた。
「俺のスマホ、見たのか?」
私が口を開くより早く、彼はヌッと顔を近づけ、私がかつて心の底から愛していたその色気のある瞳で、ただじっと私を見据えた。
やがて彼はふと伏し目がちになり、私の右目に軽いキスを落とした。
「でも、怒らないよ。昨夜のお前が怒った顔、本当に真由にそっくりだったからさ。
俺がなんで、入籍より先に結婚式を挙げたがったか知ってるか?
ウェディングドレスを着たお前が、どこまで真由に似るのかこの目で確かめたかったからだ。
お前が真由の代わりにならない限り、その顔を見ながら残りの人生を過ごすなんて、到底受け入れられなかったからな」
吐き気を催すほどの嫌悪感で、胃袋が激しくよじれるのを感じた。
「拓海、あんたって最低の変態よ……!」
「いい加減にしろ!」
突如として拓海の手が私の首を強く締め上げ、スマホの画面を乱暴に目の前へと突きつけてきた。
そこに表示されていたのは、彼が昨夜投稿したインスタグラムの画面だった。
画像は私たちのウェディングフォトで、彼が私の腰を抱き寄せ、私が満面の笑みを浮かべている1枚だ。
キャプションには【これからの人生、すべて君と共に】と添えられている。
投稿の下には、彼の会社の同僚や取引先、そして両家の親族からの「いいね」や祝福のコメントがすき間なく並んでいた。
「結月、これだけ大勢の人間が見てるんだぞ。今さら騒ぎ立てるつもりか?俺のメンツを丸潰れにする気かよ!」
だが次の瞬間、ふと我に返ったように声のトーンを落とし、私の髪を撫でようと手を伸ばしてきた。
「結月、ハネムーンのホテルも手配済みなんだ。ちょっとした『誤解』で全部台無しにするのはやめよう。
文句があるなら帰ってから聞くから。な?」
私はその手を避けるように立ち上がると、洗面所へと逃げ込み、内鍵をがちゃりと閉めた。
洗面台の鏡に映る自分の顔を見つめる。
無意識のうちに手が上がり、自らの眉骨を押さえていた。薄い皮膚の下には、ゴツゴツとした硬い骨の感触がある。
そこを何度も指でなぞりながら、ふと思う。
もし眉骨の形が真由と似ていなかったら、彼は私を選ばなかったのだろうか。
眉骨を押さえる指先に無意識に力がこもる。まるで骨から皮を削ぎ落とすかのように、そのわずかな皮膚を執拗に擦り続けた。
力任せに擦りすぎたせいで、爪の端が皮膚を引っ掻き破ってしまった。
滲み出した小さな血の滴が、眉尻に沿ってツーッと流れ落ちていく。
鏡に映る傷のついた自分の顔を見て、不思議と解放されたような気分になった。
拓海に真由を連想させるこの目元が、少なくとも今この瞬間だけは、彼女とは違うものになれた気がしたからだ。
洗面台に置いたスマホを呆然と見つめていると、不意に画面が点灯した。
拓海からのメッセージだ。
【支度ができたらすぐ出ろ。12時のフライトだ、遅れるな。
あと、鍵をかけるのは気に入らない。次からは閉めるな】