仰ぎ見ても、届かぬ月第3話
第3話は約2,247文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のうち最後の章です。第4話は公式アプリで続きます。
到底ハネムーンとは呼べないこの旅行に、結局私は同行することになった。
拓海に宥めすかされたからでも、インスタの「いいね」を盾に脅されたからでもない。
彼が家を出る際、祖母の形見である腕輪を勝手に持ち出したからだ。
車窓から流れるぼやけた街並みを眺めながら、私の脳裏に浮かぶのは、亡くなる直前の祖母の姿だった。
当時、祖母が正気を保てる時間はごく僅かになっていた。
けれど、私が婚約したと聞いたその日だけは、奇跡的にしばらくの間意識がはっきりしていたのだ。
認知症に蝕まれ、すっかり痩せ細ってしまった体の中に、あの優しかった頃の祖母が、ほんの少しの間だけ戻ってきてくれたかのようだった。
祖母は私の手を握り、ひどく痩せた手首から腕輪を外し、震える手で私へと差し出した。
「結月、幸せになるんだよ」
あの時の私は涙ながらに頷き、これから先の未来は間違いなく幸せに向かって進んでいくのだと信じて疑わなかった。
だが今にして思えば、私のその考えはどこまでも滑稽なほど間違っていたのだ。
国際線の出発ロビーで、私はスーツケースを引きずりながら拓海の後を歩いていた。
彼は道中スマホの画面から目を離すことなく、大股でスタスタと歩き、終始一度たりとも私を振り返ることはなかった。
「拓海!」
声のする方へ視線をやると、一人の女性がチェックインカウンターに寄りかかりながらこちらに手を振っていた。
私を視界に捉えた瞬間、彼女の目は私の全身を上から下まで値踏みするように舐め回し、最後に3年近く履き古した白いスニーカーでピタリと止まった。
真由だ。
なるほど、確かに顔立ちは私とよく似ている。
やがて彼女はくすりと笑い、「奥さん、すごく従順なのね」と口にした。
だがその視線は終始拓海に向けられており、まるで2人にしか通じないジョークでも共有しているかのようだった。
「来いって言えば尻尾振ってついてくるんだもん。フリップとそっくりじゃない」
フリップというのは、2人が交際中に飼っていた犬の名前だ。
スーツケースのキャリーバーを握る手にギリッと力が入り、プラスチックの硬い感触が関節に食い込んで痛みを走らせる。
私は錆びついた機械のようにギクシャクと首を巡らせて拓海を見据え、震える声で尋ねた。
「……私たちのハネムーンなのに、どうしてこの人がいるの?」
真由は極めて自然な動作で拓海から搭乗券を受け取り、記載事項を確認し、座席の指定まで済ませる。すべての手配を終えると、彼女はようやく私ににっこりと笑いかけた。
「もう知ってるんでしょ?彼、賭けで私に負けたから、ハネムーンは私と過ごす約束になってたのよ。
ただ、まさか本当にあなたまで連れてくるとは思わなかったけどね。でも、あなたがついて来たのって、おばあさんの形見が理由だとか?」
真由は勝手知ったる様子で拓海のポケットに手を突っ込み、中から祖母の腕輪を取り出した。
「これのことよね?」
三日月のようになだらかな弧を描く彼女の笑みの奥に、底知れぬ悪意を秘めた昏い光が宿るのを私は見逃さなかった。
次の瞬間、彼女のしなやかな指先からスッと力が抜ける。腕輪はターミナルの硬い床に落下し、乾いた音を立てて無残に砕け散った。
声を裏返して絶叫する自分の悲鳴が聞こえた。とめどなく溢れる涙で、顔がぐしゃぐしゃになるのがわかる。
拓海が背後から私の腰をきつく抱きすくめる。その優しい声音は、今や毒蛇が耳元を這い回るかのようなおぞましさを伴っていた。
「しっ、騒ぐな。たかが腕輪1つだろ」
その後、自分がどうやって2人に引きずられるようにして飛行機に乗せられ、ホテルに辿り着いたのか、記憶が完全に抜け落ちている。
ハッと我に返った時、手元に2枚のカードキーを弄りながら、真由がフロントからこちらへ歩いてくるところだった。
彼女は1枚目のカードキーを拓海に手渡した。
「あなたのオーシャンビュースイートよ。夕日が正面に見えるバルコニー付きの部屋をわざわざ取っておいたの」
それから手元のバッグをごそごそと探り、数秒後、これ見よがしに薄っぺらいカードキーを抜き出して私に突き出した。
「奥さんはスタンダードルーム。別館のね。なんせ繁忙期だから、この部屋しか空いてなかったのよ」
彼女はそこで言葉を切り、2人にしか聞こえないほどの小声で耳打ちしてきた。
「もし夜中に部屋を替えてほしくなったら……」
彼女はパチリと片目をつぶり、悪びれもしない笑みを浮かべた。
「私に土下座でもしてみる?」
私は無意識に拓海の方へ視線を泳がせた。
彼はちょっと離れた場所に立ち尽くしたまま、うつむいてスマホの画面をスワイプしており、初めから終わりまで一度たりとも顔を上げることはなかった。
部屋に入り、スーツケースを床に寝かせた途端、スマホの画面が明るく光った。
真由が拓海のスマホを使って送りつけてきた、1枚の画像だ。
画像の中で、彼女と拓海はオーシャンビューのバルコニーに肩を並べて立ち、それぞれシャンパングラスを掲げていた。
頭は拓海の肩へと親しげに傾けられ、ひまわりのようにこれ以上ないほど燦々と輝く笑みを浮かべている。
画像の下には、短い一文が添えられていた。
【安心して。あなたの代わりに、彼のお世話はしっかりしておくから】
それを食い入るように見つめ続けるうち、ふと腑に落ちた。
この新婚旅行の主役は、最初から私なんかじゃなかった。
これは彼らのための旅行だったのだ。
私はただ別館の安部屋に隔離され、2人の感動の再会を見せつけられるためだけに呼ばれた、滑稽なエキストラに過ぎなかったのだ。