俺の料理を食うくせに、料理人の匂いが嫌だと?第1話
第1話は約1,969文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
幼なじみだからという理由だけで、俺・高橋樹(たかはし いつき)は20年もの間、桐谷清香(きりたに さやか)のそばにいた。
周りから見れば、俺は昔から変わらない厄介者だった。何をしても清香について回って、毎日のように彼女を困らせていた。
けれど、清香が新しい車を買った日を境に、俺は人が変わったように大人しくなった。
わがままも言わない。無理に構ってほしいとも言わない。
まるで、最初からそこにいなかったかのように。
そんな俺を見て、清香のほうが戸惑っているようだった。
その夜。
雨の中、遅い時間になってからアパートに帰ってきた清香は、珍しく穏やかな口調で俺に話しかけてきた。
「今日、車に乗せなかったのは……怜司が、そういう匂いが苦手だからなの。
あなたが悪いって言ってるわけじゃないよ。ただ、怜司はちょっと潔癖なところがあって。厨房の匂いが服についてるのが、どうしても気になるみたい。
雨もそんなに降ってなかったから、先に怜司を送ってきただけ。だから……もう怒ってないでしょ?」
結局、また白石怜司(しらいし れいじ)のためだった。
少しでも匂いがすると嫌がる、あの潔癖症の男のために。
俺は小さく笑った。
「別に。気にしてないよ」
どうせ3日後には、俺はフランスへ行く。
ル・コルドン・ブルーで料理を学ぶために。
そうなれば、もう清香に俺の匂いを気にさせることもない。
俺だって、もう清香のために何かを我慢する必要はなくなる。
* * *
玄関に立った清香は、わずかに眉をひそめていた。
きっと、俺がいつものように食ってかかって、また大喧嘩になると思っているのだろう。
無理もない。
この20年間、清香の前に男が現れるたび、俺は決まって大騒ぎしてきた。
しかも今日は、清香がポルシェ・パナメーラを手に入れた記念すべき日だ。
3か月もの間、俺は清香と一緒にインスタントラーメンをすすりながら、何十枚もの企画書を整理するのを手伝ってきた。
その甲斐あって、清香はようやく、新車を現金一括で買えるほどの大きな仕事をものにした。
なのに、納車された車のキーを受け取った清香が、真っ先に助手席へ乗せたのは怜司だった。
俺はというと、店の前に一人、置いてきぼりにされた。
「……本当に、何とも思ってないの?」
清香はスリッパに履き替えると、俺のところまでやってきて、探るように顔を覗き込んだ。
俺は顔を上げなかった。
スーツケースを開いたまま、黙々と服を畳んでいく。
「別に。白石は体が弱いんだろ。清香が気を遣うのは当然じゃないか」
その言葉を聞いた途端、清香の眉間に刻まれたしわが、さらに深くなった。
俺が畳んでいた服に手を伸ばしたかと思うと、その手を乱暴に押さえつける。
「……何、その言い方。
怜司は潔癖なだけじゃない。喘息だってひどいのよ。あなたの店、確かに匂いが強すぎるでしょう。あんなところにいたら、発作を起こすことだってあるんだから。
それでも気が済まないっていうなら、明日、前から欲しがってた限定スニーカーを買いに行こう。……それでいい?」
スニーカー?
俺は、苛立ちを隠しきれない清香の顔を見つめた。
その瞬間、なぜか少しだけ可笑しくなった。
あのスニーカーは、先月からずっと欲しかった。
でも、俺は清香の納車祝いを買うために、ずっとお金を貯めていた。
だから、自分のために買う気にはなれなかった。
そのくせ清香は、怜司と初めて会ったときの贈り物に、十数万円もする高級腕時計を選んでいた。
「いらないよ。靴ならもう持ってる」
俺は清香の手をそっと払いのけ、最後のセーターをスーツケースにしまった。
そこで初めて、清香は床に置かれたスーツケースに気づいた。
その瞬間、彼女の目からすっと光が消えた。
「高橋樹……また出ていくつもり?」
ああ。
またこの感じ。彼女は怒るたびに、決まって俺のことをフルネームで呼ぶ。
「ちょっと言うことを聞かないだけで、すぐ『死んでやる』だの何だの言って、荷物をまとめて実家に帰るでしょう。
もう25歳なんだから、子供じゃないでしょう?もう少し大人になれないの?」
俺はスーツケースのファスナーを閉め、ゆっくりと立ち上がった。
そして、清香の目をまっすぐ見た。
「怒ってるわけじゃない。ただ、季節が変わるから、服をクリーニングに出そうと思ってるだけだ」
清香は一瞬、不意をつかれたような顔で固まった。
やがて、苛立たしそうに髪を指先で弄びながら、また声を落ち着かせる。
「……とにかく。今日は、雨の中にあなたを置いて帰った私が悪かった。
それに、朝からずっと胃が痛いの。ラーメン作ってくれない?卵、二つくらい入れて」
清香は、いつものように俺に頼む。
どうせ俺が心配して、すぐに台所へ向かうと思っているのだろう。
俺は、胃のあたりを押さえている彼女の手を黙って見つめた。
けれど、頭に浮かんだのは――今日の午後に起きた、あの出来事だった。