俺の料理を食うくせに、料理人の匂いが嫌だと?第2話
第2話は約1,793文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
インスタに上がっていた、清香が怜司に「いいね」をつけていたフレンチのコース料理の写真が、ふと頭をよぎった。
「キッチンにはもう何もないから、適当にデリバリーでも頼んで」
そう言い残して、俺はスーツケースを引きながら寝室へ向かった。
そのとき、清香に手首をつかまれた。
「樹、ちょっと待って」
思わず振り返る。
手首に食い込む指が痛い。あまりの強さに、赤い跡がくっきりと残った。
「私があれだけ謝って、機嫌を取ってあげたのに……まだそんな態度を取るつもり?」
俺は痛みに耐えながら、反射的に手を引こうとした。
すると清香の視線が、俺の右腕に止まった。
そこには、今も消えずに残っている火傷の痕がある。
清香の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
そして、ゆっくりと俺の手首から手を離した。
この傷を負ったのは、18歳のときだった。
清香の実家で突然火事が起きた。
俺は何も考えずに火の中へ飛び込み、清香を外まで連れ出した。そのときに負った火傷だった。
その傷のせいで、俺は飛行士になる夢を諦めた。
代わりに手にしたのは、操縦桿ではなく包丁だった。
母が残してくれた、古びた小さな料理屋を継いだ。
あの頃の清香は、全身血だらけになった俺を抱きしめて、泣きながら言った。
――一生、私が面倒を見るから。
あの言葉を、俺はずっと信じていた。
なのに今の清香にとって、俺の体に染みついた店の匂いは、怜司にとって不快なものらしい。
「別に怒ってないよ。本当に疲れただけ」
俺は赤くなった手首をさすりながら、淡々と答えた。
清香は何も言わず、しばらく俺を見つめていた。
やがて、ふっと鼻で笑う。
「そう。まだ意地を張るってことね。だったら明日、あの店を誰かに売るから。
どうせ怜司は、あの通りを通るたびに鼻をつまんでるんだもの。あんな店、前から閉めてやろうと思ってたの」
俺は足を止めた。
ゆっくりと振り返る。
「……何言ってるんだ?
あの店は、母さんが俺に残してくれた唯一のものだ。勝手に売るなんて、そんなこと許されるわけないだろ」
ようやく俺の顔に感情が浮かんだ。
それを見た清香の目に、ほんの少しだけ満足そうな色が浮かぶ。
「できるわよ。だって、今は私の名義になってるんだから。
ねぇ、もういいでしょう?店なんか閉めて、うちの会社で働けばいいじゃない。総務の仕事なら、そんなに汚れないし。毎日きれいな格好でいられるでしょう?
毎日あんな場所にいて、服も体も油の匂いが染みついてる。そんな姿で一緒に取引先へ行くの、正直言って恥ずかしいのよ」
――恥ずかしいか。
その一言が、胸の奥に突き刺さった。
20年間。
俺は清香のために、夜遅くまで料理を作ってきた。
彼女が会社を立ち上げたばかりの頃には、あの店を守りながら必死で働いて、彼女が最初に事業を始めるための金まで作った。
それなのに。
清香は成功した今になって、俺の身に染みついた匂いを「恥ずかしい」と言う。
俺は深く息を吸った。
目の奥が熱くなるのを感じながら、それを必死にこらえる。
「……好きにすれば」
それだけ言って、俺は背を向けた。
寝室に入り、静かに鍵をかける。
次の瞬間、リビングから大きな音が響いた。
彼女が八つ当たりをして、物に当たっている音だった。
続いて、清香の怒鳴り声が聞こえてくる。
「高橋樹!本気で言ってるからね!
明日、見てみなさい!あんな店、全部壊してやるから!」
俺はドアに背を預け、そのままゆっくりと床に座り込んだ。
ポケットから、パリ行きの航空券を取り出す。
あと2日だ。
清香、お前はもうすぐ、俺のことを気にしなくてよくなる。
お前が嫌っていた、この「恥ずかしい匂い」も、もう二度と嗅がなくて済む。
翌朝。
俺は中心街の公証役場へ向かった。
そこで、店の持ち分のうち50パーセント――つまり俺が持っていた分を、以前から店を買いたいと言っていた経営者に無償で譲った。
すべての書類にサインを終えた、その直後だった。
スマホが激しく震え始めた。
店の現場を任せている佐藤大輔(さとう だいすけ)からの電話だった。
「樹さん!早く来てください!
桐谷社長が大勢連れてきて、店をめちゃくちゃにしてるんです!
ここを改装して、フランス菓子の店にするって……今、店の中のものを全部外に放り出してます!」
俺はスマホを握る手に、思わず力を込めた。
――清香。本当に容赦がないな。
俺は通りに出ると、タクシーを止めた。
そして運転手に、できるだけ早く店へ向かうよう告げた。