俺の料理を食うくせに、料理人の匂いが嫌だと?第3話
第3話は約1,699文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のうち最後の章です。第4話は公式アプリで続きます。
遠くからでも、すぐに目に入った。
母が昔、自分の手で書いた店の看板が、泥だらけの道に無造作に捨てられている。
そのすぐそばでは、怜司が清香の傘の中に立ち、鼻をつまみながら、店から運び出されてくる鍋や食器を嫌そうに眺めていた。
「清香、ここもかなり汚れてるけど……本当にこんなところ、スイーツの店にできるの?」
「大丈夫よ、怜司。ちゃんと業者を呼んで隅々まで消毒するから。床のタイルだって全部剥がして、新しく張り替える。油の匂いなんて、少しも残さないわ」
清香の声は、ひどく優しかった。
昨夜、俺に怒鳴りつけていたのと同じ人間とは思えない。
俺は人をかき分けるようにして店の中へ飛び込んだ。
そこで真っ先に目に入ったのは、ゴミの山の一番上に放り出されていた、古い木箱だった。
あれだけは、絶対に失くすわけにはいかなかった。
中に入っているのは、母さんから受け継いだ秘伝のレシピだけじゃない。
清香が15歳のとき、俺のためにナイフで彫ってくれた、木製のへらも入っている。
あのとき、清香は手を切って血を流しながら、それでも笑っていた。
「樹。いつか料理長になったら、私が手伝ってあげる」
俺は何も考えず、その木箱に飛びついた。
「樹!何してるの!」
清香が俺の腕をつかみ、そのまま強引に引き戻した。
足元がふらついた。
次の瞬間、俺は油で汚れた水たまりの中に倒れ込んでいた。
膝を割れたタイルに強く打ちつける。
鋭い痛みが走った。
「うわっ!」
怜司が驚いて声を上げ、嫌そうに一歩後ずさった。
「清香……こいつ、すごく汚れてる。俺に近づけないで」
清香はすぐに怜司を自分の後ろにかばい、倒れている俺を見下ろした。
「樹、何をそんなにムキになってるの?
昨日も言ったでしょう。私は、この店を閉めるつもりなの」
俺は清香の言葉を無視した。
手と膝をつきながら、必死に木箱のほうへ這っていく。
けれど、もう遅かった。
ちょうどそのとき、ゴミ収集車がバックで入ってきた。
作業員たちが、そこに積まれていたゴミを容赦なく運び、ゴミ収集車へ放り込んでいった。
「やめろ!止めてくれ!あれには母さんの形見が入ってるんだ!」
俺は声が枯れるほど叫びながら、作業員を止めようと駆け寄った。
けれど、清香が後ろから俺の腰にしがみつき、必死に押さえ込んだ。
「もうやめて、樹!ただのガラクタでしょう?
そんなもののために、ここまで騒いで恥をかくつもり?」
――バキッ。
乾いた音がした。
俺は目の前で、木箱がゴミ収集車の荷箱に押し潰されていくのを、ただ見ているしかなかった。
あの木箱に入っていた木べらが、真っ二つに折れる。
俺たちが幼い頃から積み重ねてきた時間まで、引き裂かれたような気がした。
木べらはそのまま、ゴミ収集車の中へ落ちていった。
母さんの黄ばんだレシピも、同じように押し潰されていく。
その瞬間、俺の中で何かが切れた。
周りの音が、急に遠くなった。泣くことも、叫ぶこともなかった。
俺はただ、そこに立ち尽くしていた。
清香に腕を引かれるまま、道端まで連れていかれる。
そんな俺を見て、清香のほうが不安そうな顔をした。
手を離すと、少し慌てたような声で言う。
「樹……そんな顔しないで。
レシピなんて、また作ればいいじゃない。腕のいい料理人を探して、同じものを作ってもらえばいいでしょう?
それに、あんな古い木べらなら……明日、デパートで純金のやつでも買ってあげる。ね?」
俺はゆっくりと顔を上げた。
目の前にいるのは、俺が20年間、ずっと愛してきた女だった。
清香は知らない。
あのレシピには、もう一つ、大切なものが挟まっていた。
清香の母親が、亡くなる前に娘へ宛てて書いた一通の手紙。
俺はその手紙を、10年間ずっと大切に保管してきた。
本当は、来月の清香の30歳の誕生日に、プレゼントとして渡すつもりだった。
長い間、心の奥に抱えていたわだかまりを、少しでも解いてやりたかった。
それなのに。
今はもう、何も残っていない。
俺は、ふっと笑った。
「そうか。じゃあ、清香。純金のやつ、忘れるなよ」
清香は俺の笑顔を見つめた。
なぜか、背筋がぞくりとしたようだった。
清香が恐る恐る手を伸ばしてくる。
けれど俺は、顔をそらしてその手を避けた。