優しさという名の罠第1話
第1話は約2,112文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
妊娠28週目。夫の湯山泰輔(ゆやま たいすけ)が私を妻に選んだのは、彼が最も愛する女、善如寺由衣(ぜんにょじ ゆい)に、出産の苦しみを味わせないための身代わりに過ぎなかったのだと知った。
彼の甲斐甲斐しい優しさの裏には、緻密に仕組まれた罠が隠されている。
離婚を決意し、海外へ渡ろうとした矢先、由衣の手によって私はお腹の子を失った。
絶望の中、私はすべてを捨てて遠い異国の地へと旅立ったが、泰輔は狂ったように私の後を追った。
雪の中に膝をつき、涙ながらに許しを乞う彼。
けれど彼はまだ知らない。私がすでに、逃げ場のない復讐を企てていることを。
今度は私が、彼と由衣に相応の報いを受けさせる番だ。我が子の無念を晴らすために。
* * *
湯山泰輔(ゆやま たいすけ)との結婚は、人生で最も幸せなことだと信じていた。そのために、海外留学のチャンスさえも投げ捨てたのだ。
彼はどこまでも甲斐甲斐しく、妊娠中の私が自分で靴下を履くことさえ許さないほど大切にしてくれた。
妊娠35週目のある日。私は期待に胸を膨らませながら、健診の結果を彼に報告しようと書斎へ向かった。
けれど、ドアの前で足を止めた。中から彼の親友・半沢寿紀(はんざわ としき)のからかうような声が聞こえてきたからだ。
「泰輔、由衣ちゃんがもうすぐ帰国するんだろ?いつまであの子供を産む機械に付き合ってやるつもりだ?」
泰輔の声は、驚くほど冷淡だ。
「子供が生まれるまで演じきって、それから別れるさ」
寿紀が口笛を吹いた。
「さすがだな。よく耐えられる。俺たちの仲間で、妊娠中期まで演じきった奴なんていねえぞ」
泰輔が鼻で笑った。
「完璧に演じてみせるさ。由衣に、あんな苦しい思いはさせたくないからな」
私は書斎に踏み込んで問い詰めることもせず、ただ静かに背を向けた。
そして、海外留学の準備に必要な書類を揃え始めた。
……
書斎の外に立ち尽くす私の手には、印刷されたばかりのエコー写真が握られている。
赤ちゃんの輪郭がはっきりと写っている。小さな手、小さな足。それは、芽吹いたばかりの種のように見えた。
湯山楽夢(ゆやま らむ)――それは泰輔が名付けた子供の名前だ。愛に包まれて楽しく夢を見られるように、と言って。
今となっては、その願いを込めたはずの名前が、あまりにも忌々しい。
私は震える手で写真を握りしめた。爪が、手書きで記された【楽夢】の二文字を無惨に引き裂いた。
――なんて滑稽なのだろう。我が子の名を呼ぶ時でさえ、彼の心には別の女がいるのだ。
突然、胃の底から込み上げるものがあり、喉の奥が酸っぱく感じられた。
私はたまらず隣の洗面所に駆け込んだ。
洗面台に顔を伏せ、前かがみになって何度もえずいたが、何も出てこない。
ふと見ると、先ほど握りつぶしたエコー写真が床に転がっている。心臓が締めつけられるような思いがした。
そこに映る小さな命の姿ははっきりしているが、その小さな手や小さな足が、鋭い刃物のように私の心臓を深く突き刺した。
泰輔にとって、私はただの「子供を産む機械」でしかなかったのだ。
……
背後から急に足音が近づいてきた。
泰輔の手が私の背中に添えられた。ミントの香りにタバコの匂いが混じり、鼻を突いた。
「また具合が悪くなったのか?」
彼の声は切羽詰まったように響き、温かな手のひらで私の背中をさすった。
「お手伝いさんにグリーンスムージーを作るよう頼んである。もう少しで……」
私は思わずその手を振り払った。
あまりに唐突な拒絶に、彼の腕は宙で止まった。
「楽夢がまた暴れてるのか?」
泰輔は腰を落とし、汗で張り付いた私の前髪をかき上げた。指先が耳たぶに触れた瞬間、全身が震え始めた。
かつては安らぎをくれたその手の温もりが、今は毒蛇の舌のように感じられてならない。
「触らないで」
私は枯れた声で彼を突き放した。
彼は一瞬呆然としたが、すぐに困ったような笑みを浮かべた。
「ホルモンバランスが崩れて情緒不安定なのかな。白湯を一杯持ってくる」
私は答えず、彼の鎖骨にある【Only Love Y.】というタトゥーをじっと見つめた。
私が妊娠したと分かった日に、彼が彫ったものだ。
理由を尋ねた時、彼はこう答えた。
「『Y』は『You』の略さ。Only Love You、生涯君だけを愛し抜くという誓いだぞ」
けれど今、ようやく理解した。「Y」は由衣の頭文字だったのだ。
「ほら、口を開けて」
彼は白湯の入ったコップを私の唇に寄せた。
窓から差し込む日差しが、彼のまつ毛の影を長く伸ばしている。それはまるで、計算し尽くされた優しさという名の罠のようだ。
その時、泰輔のスマホが鳴った。
画面を確認した彼の眉が、わずかに動いた。
「出たら?」
私は小さな声で言った。
「仕事の話かもしれないし」
彼は一瞬ためらったが、窓際まで歩いて行き、電話に出た。
「ああ……分かった……すぐに行く」
電話を切って振り返ると、彼はすでにいつもの優しい表情に戻っていた。
「静香、急な会議が入ったんだ。お手伝いさんを呼ぶから、ゆっくり休んでてくれ」
私は彼の鎖骨にあるタトゥーを見つめ、不意に笑みがこぼれた。
「ええ、分かったわ」
彼が洗面所を出た直後、廊下の向こうからひそひそと話す声が聞こえてきた。