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優しさという名の罠第2話

第2話は約1,721文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。

「泰輔、由衣ちゃんが帰国した。今、空港にいるって」

寿紀が話した。

私は壁を支えにして、ゆっくりと角まで移動した。

泰輔は背を向け、声を低く抑えて問い返した。

「来週のはずじゃなかったのか?」

「早まったんだとさ」

寿紀は私のいる方向にちらりと視線を送り、泰輔の袖を引いた。

「お前は早く行け。こっちは俺がうまく誤魔化しておく」

泰輔が洗面所の方を振り返ったので、私は慌てて身を隠した。

「……急な仕事が入ったと伝えてくれ」

彼はそう言い含めた。

「感付かれるな」

足音が遠ざかっていく。私は壁にもたれかかり、スマホを取り出して連絡先をスクロールした。

まず、弁護士に電話をかけた。

「離婚手続きをお願い。できるだけ早く」

次に、かつての指導教員に連絡を取った。

「先生、マサチューセッツ工科大学の博士課程への推薦、もう一度お願いできないでしょうか」

受話器の向こうで、一瞬の沈黙が訪れた。

「本気か?君は今、身重のはずだ。旦那さんとは……」

「離婚します」

私は言葉を遮った。自分でも驚くほど、声は穏やかだ。

「一刻も早く、ここを離れたいのです」

電話を切ると、メールボックスを開いた。

下書き箱には、三年前の自分が書いた【辞退届】が眠っている。

私はそのメールを削除し、新たに打ち始めた。

【拝啓、選考委員会の皆様。

私の博士課程への入学申請について、改めてご検討いただきたく……】

……

パソコンを閉じ、ベッドに身を丸めているうちに、意識が遠のいていった。

夢の中で、私はあの雨の夜に戻っている。

12歳のあの時も、こうしてパソコンの前で遺書を綴る母の背中を見ていた。

母の背中は紙のように薄く、キーボードを叩くカタカタという乾いた音だけが響いていた。

「ごめんね、静香。お母さん、もう耐えられないの」

母は私のお気に入りだった赤いワンピースを身にまとい、18階から飛び降りた。

ひどい雨の日だった。雨水と血が混ざり合い、アスファルトを赤く染めていた。

人だかりの外で、私は母のワンピースが道端に咲いては枯れた花のように広がっているのを眺めていた。

父は葬儀の席に新しい女を連れて現れ、一滴の涙も流さなかった。

「お母さんは、心が弱すぎたんだ」

彼は私の頭を撫でながら言った。

「お前は強く生きろ」

それ以来、私は愛というものを信じられなくなった。

本の山に閉じこもり、知識という高い壁を築いて自分を守ってきた。

泰輔に出会うまでは。

彼は雨の日に街を横断して傘を届けてくれた。何気なく呟いた一言もすべて覚えていてくれた。実験で遅くなった夜には、温かい夜食を運んでくれた。

「静香、俺にチャンスをくれないか?」

片膝をついてプロポーズした彼の瞳には、星が宿っているようだった。

「君に、帰る場所を作りたいんだ」

私はその言葉を信じてしまった。

マサチューセッツ工科大学のフルスカラシップさえ辞退して、彼こそが私の心の拠り所だと思い込んだ。

暗闇を恐れなくていいと感じさせてくれる、唯一の人だと。

――今思えば、なんと皮肉な話だろう。

母は愛のために命を落とし、私は愛のために将来を捨てた。

行き着く先は、どちらも同じだったというのに。

……

眠りの中で、マットレスがわずかに沈むのを感じた。

上半身裸の泰輔が潜り込んできて、私の腰に腕を回した。酒の匂いと共に、首筋に顔を寄せてきた。

「静香……」

甘ったるい女物の香水の香りが鼻を突き、私は彼を突き飛ばすように押しやった。

「離れて。汚らわしい」

彼は一瞬面食らったようだが、ふらつく足取りで立ち上がり、浴室へと消えていった。

シャワーの音が響く中、ドア越しに彼の声が聞こえた。

「静香、テーブルに朝食を置いておいた。昨日、あの老舗のおしるこが食べたいって言ってたろ?30分も並んで買ってきたんだ」

私は起き上がり、ダイニングテーブルへ向かった。

床に脱ぎ捨てられた彼のシャツの襟元に、鮮やかな口紅の跡がついているのが見えた。

吐き気がするほど鮮やかな赤。誰の仕業かなど、考えるまでもなかった。

こみ上げる不快感に耐えきれず、私は朝食を袋ごとゴミ箱に投げ捨てた。

シャワーを浴びて出てきた泰輔は、ゴミ箱の中身を見て眉をひそめた。

「静香、どうしたんだ?口に合わなかったかい?」

「見てるだけで反吐が出るの。食べたくないわ」

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