優しさという名の罠第3話
第3話は約1,866文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のうち最後の章です。第4話は公式アプリで続きます。
私は冷たく言い放った。
泰輔はしばらく沈黙した後、キッチンへ向かった。
やがて、一杯の味噌汁を手に戻ってきた。
「俺が作った。温かいうちに飲んで」
私が味噌汁を啜っていると、向かいに座った彼の声に苛立ちが滲み始めた。
「静香、最近の君は少しわがままが過ぎるんじゃないか?」
箸を握る手が止まった。
以前の私は、つわりで何も食べられない時、彼が趣向を凝らして料理を作ってくれた。食べたいと言えば、夜中だろうと車を飛ばして買いに走ってくれた。
「君の好きなものなら何でも用意する。君が笑ってくれるなら、それでいいんだ」
かつて彼は、そう言ってくれた。
それなのに、今の彼は私を「わがまま」だと言い放った。
私は俯き、こぼれ落ちそうな涙を味噌汁の中に沈めた。
私の様子に気づいたのか、泰輔は少し声を和らげた。
「マタニティフォトを撮りたいって言ってただろう?今日の予約を取ってあるんだ」
私は一瞬呆然とし、膨らんだお腹をそっと撫でた。そして、静かに頷いた。
彼がどんなにひどい男であっても、写真を撮って、私とこの子のかけがえのない思い出を残したいから。
……
午後三時、フォトスタジオ。メイクアップアーティストがコンシーラーの色を調整している。
「妊娠線はこの色で隠すと綺麗に見えますよ」
メイクブラシが私のお腹の上を滑っている。
「奥様、リラックスしてくださいね。きっと素敵な写真になりますから」
私は鏡に映る、自分の崩れた体型を見つめている。鎖骨の下には、点々と広がるシミが星のように散らばっている。
その時、廊下に響く高いヒールの音が静寂を破った。
泰輔の妹、湯山陽菜(ゆやま ひな)が、見知らぬ女の手を引いて土足で踏み込んできた。派手な赤いネイルが目に刺さるようだ。
「由衣さん、見て」
陽菜はわざと声を張り上げた。
「これが、お兄さんが結婚相手として選んだ産む機械よ」
善如寺由衣(ぜんにょじ ゆい)は、ウエストを覗かせたタイトなトップスに黒のワイドパンツを着こなし、しなやかな腹筋を見せている。
彼女は私のお腹を値踏みするように眺めると、唐突に指でそこを突いた。
「へえ、妊娠線って触るとデコボコしてるのね。まるで古びた樹の皮みたい」
メイクブラシが床に落ちた。
私は思わず上着を掴んでお腹を隠そうとしたが、陽菜がそれを奪い取り、ゴミ箱へ放り投げた。
「何隠してるのよ?自分がブスってこと、自覚したらどう?」
「陽菜ちゃん」
由衣はたしなめるように、陽菜の手を軽く叩いた。
「他人が選ぶ道は理解してあげなきゃ」
彼女は私に向き直り、淑やかな笑みを浮かべた。
「けれど、私には理解できないわ。どうして自分をあんなにボロボロにしてまで、子供なんて産もうとするのか……」
私はマタニティドレスを握りしめ、泰輔に助けを求めた。
彼の視線が一瞬だけ私のお腹に落ち、不快そうに眉をひそめると、すぐに顔を背けた。
以前の彼なら、私が少しでも心無い言葉を浴びせられたら、相手に謝罪させるまで許さなかった。
けれど今の彼は、スマホの画面を見つめるばかりだ。その光が鎖骨の【Only Love Y.】というタトゥーを照らしている。
「妊婦って、お漏らししちゃうんでしょ?」
陽菜が突然、私のドレスの裾をめくり上げた。
「お義姉さん、オムツでも当てておこうか?」
由衣は宝石を散りばめたネイルで赤い口元を隠し、吹き出して笑った。
「陽菜ちゃん、やめて。お義姉さんが傷ついちゃうじゃない」
彼女は突然身を乗り出し、私の耳元に唇を寄せた。シャネルの五番の香りと共に、どす黒い悪意が鼓膜に届いた。
「知ってる?泰輔は妊娠した後のあなたの姿がブサイクで、触れるたびにアルコールで三回も手を拭いてるんだって。私にはそんな思い、絶対にさせたくないって言ってたわよ」
私は震える足で立ち上がった。ドレッサーチェアがガシャンと音を立てて倒れた。
泰輔はようやく顔を上げたが、苛立ちを滲ませながら腕時計を見た。
「まだ終わらないのか?五時から用事があるんだ」
由衣は当然のように彼の腕に絡みつき、指先で鎖骨のタトゥーをなぞった。
「五時?私の帰国祝いのパーティーに来てくれるんでしょう?急がなくていいわよ。奥さんの撮影が終わるまで、付き添ってあげて。だって彼女、あなたのために必死に子供を産んでくれるんだもの」
鏡の中の私は、お腹に火花が散ったような無惨な妊娠線を晒している。
一方、泰輔の傍らに立つ女は艶やかな髪をなびかせ、二人は芸能人のカップルのようで、あまりにもお似合いだ。
「……旦那様」
メイクさんがパフを手に、恐る恐る尋ねた。
「奥様の目元に涙が……お直しされますか?」