十年追いかけた愛は嘘だった第1話
第1話は約2,756文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
十年前、白野修二(しらの しゅうじ)は白野家と決別し、藤田夏美(ふじた なつみ)を連れて駆け落ちした。
今では成功を手にし、海崎市中の花火を買い占め、世紀の結婚式を企画している。
誰もが夏美が賭けに勝ったと羨んでいた。
修二は彼女の髪に口づけし、深い眼差しで尋ねる。
「夏美、この結婚式のために一年かけて準備したんだ。楽しみにしてるか?」
夏美は小さく頷いた。
たしかに楽しみだ――修二の兄に嫁ぐことを。
* * *
「修一(しゅういち)との結婚、もう決めた。一週間後に浜辺市へ行く」
藤田夏美(ふじた なつみ)は話しながら、ふと白野修二(しらの しゅうじ)の首筋に残るキスマークに目をやった。胸が鋭く痛んだ。
修二に騙されたのは、これで何度目だろう。
彼女はそっと首を振ると、ふっと苦い笑みが口元に浮かんだ。
電話の向こうで一瞬の沈黙があり、戸惑いの声が返ってきた。「藤田さん、本当にそれでよろしいのですか?もし修一様に嫁ぐことになったら、そのお子さんは……」
「堕ろすわ」
「承知しました。一週間後にお迎えにあがります」
電話を切ったと同時に、ドカンという音がして、夜空に華やかな花火が咲いて散った。
花火の明かりと同時に、夏美の目に機体に大きく刷り込まれた彼女と修二のツーショットが浮かび上がった。
写真の中、幸せそうに笑う二人の顔が、夏美の胸を締めつけ、目頭を熱くさせる。
「夏美、十周年おめでとう!」
修二にぐいと抱き寄せられ、清々しい松の香りが鼻先をかすめた。夏美はわずかに眉を顰める。
「新居はお前の好みに合わせて仕上げてある。ベビールームのおもちゃも揃えたし、引き出物の記念品は何種類か選んである。後はお前が決めてくれ」
「……わかった。とりあえず搭乗しましょ」
言葉を遮るように、夏美はスーツケースの柄を握った。窓ガラス越しに、一瞬、花火が光った。青い花火がこれほど不快に見えたのは、生まれて初めてだ。
予定では、一か月後に夏美と修二の世紀の結婚式が挙げられるはずだ。そして彼女は可愛い赤ちゃんを産み、裕福な妻として穏やかな人生を歩む――はずが、修二は彼女を欺いていた。
十年前、夏美は白野家の兄弟の中から修二を選んだ。兄の修一は彼女の手を握りしめ、真っ赤な目で詰め寄った。
「修二は隠し子だ。遺産を継ぐ資格もないし、お前を幸せにすることもできない。なぜ……なぜあいつを選ぶんだ」
――クリスマスにくれたあの手袋のために。
――雪の日、肩にそっと掛けてくれたマフラーのために。
――凍えた手を修二の胸に当てたとき、彼がくれたあの優しいぬくもりのために。
若い頃は、愛のために愚かなことをしてしまうものだ。
夏美は十年の青春をかけて修二という男を見極めた。後悔しているかどうかは、もうどうでもいい。
スマホの通知音が鳴り、夏美は思い出の中から現実へ引き戻された。
修二は少し慌てたようにスマホの画面をロックする。
その仕草を見逃さなかった夏美は、からかうように言った。
「楚山秘書からでしょ?どうして見ないの?」
修二は口元に笑みを浮かべながらも、声がわずかに震えていた。
「夏美、お前は今お腹に赤ちゃんがいるんだ。そんなに疑ってばかりじゃ、赤ちゃんによくないよ」
もうすぐその子を失うかもしれない。そう思うと、熱いものが一気にこみ上げ、涙が頬をつたった。
修二は慌ててその涙をキスで拭いながら言った。
「ごめん、夏美。俺の言い方が悪かった。でも、俺と純子は本当にお前が思っているような関係じゃないんだ」
夏美が返事をする間もなく、機内アナウンスが流れる。「乗客の皆さま、シートベルトをお締めください。飛行中に雷雨に遭遇する可能性があります。客室乗務員の指示にただちに従ってください」
機内にはあちこちからすすり泣く声が響き始めた。修二は夏美を胸に抱き寄せ、優しく囁く。「夏美、怖かったら目を閉じて。俺がいるから」
夏美がそっと目を閉じると、修二がその髪を撫で、覆い被さるようにして唇を重ねた。その口付けは、柔らかく、深かった。
情熱的なはずのキスなのに、夏美の心は微動だにしない。
修二は純子と密会しているときも、こんなふうに熱くキスをしているのだろうか。
気がつくと、機体の揺れはすでに収まっていた。客室乗務員が修二の耳元で何かを伝えると、彼の顔からさっと血の気が引いた。
「行かない」
客室乗務員が彼に一枚のメモを押し付け、くるりと背を向けて去っていった。
修二は一瞥するなり、その紙を掌でぐしゃりと握り潰した。息遣いが荒くなっていく。
「夏美、ちょっとトイレに行ってくる」
そう言うや否や、彼は堪えきれないように立ち上がり、トイレへ入ったらすぐにドアを閉めて鍵をかけた。
夏美は床に落ちたメモを拾い上げ、そっと広げる。【三万フィートの高空で、試してみない?本物の輸入JKキャミワンピ、破られるのを待ってる】
夏美は無表情のまま、トイレへと歩み寄った。
中からは甘く湿った声が漏れてくる。
「やめて、痛いよ……」
「黙れ!よくもここまで俺たちにつけてきたよな!」
修二の荒い息づかいが混じる。
「今回だけは見逃してやる。飛行機を降りたら、俺たちは終わりだ!」
純子の鈴のような笑い声が響いた。
「いいわよ。家にあるメイド服もバニー服も、じゃあ他の人に破ってもらおうかな……」
さらに激しい音が純子の声をかき消した。
「やめろ!」
修二の口から、怒りと欲望が渦巻く声が低く響いた。
「飛行機を降りたら、家で待ってろ」
トイレの外で、夏美が掌に指を食い込ませると、仕上げたばかりのネイルが無理に折れた。
十本の指先に走った痛みが、爪先から全身へと広がる。そして、目尻から涙がひとしずく、こぼれ落ちた。
夏美と一緒にいるときの修二は、いつも驚くほど優しく、辛抱強かった。彼は夏美の気持ちを気遣い、少しずつ彼女を求めていった。
ある時、夏美がセクシーな下着で誘ってみた。すると修二は、むしろ顔を曇らせ、真剣な口調で言い放った。「そういうの、俺は好きじゃない」
……結局、あの人が嫌いなのは、私がそれを着ることだけなのか。
夏美は虚ろな気持ちで席に戻り、目を閉じて眠ったふりをした。
十分後、修二が戻ってきた。彼の体には汗と甘い香水の匂いが混じっていた。
「夏美?」
夏美は目を閉じたまま、気づかぬふりで顔をそむけた。
修二は小さくため息をつき、そっと彼女の後頭部に口づけた。
飛行機を降りると、修二が手配した専用車がすっと横づけになった。しかし、彼はドアの前で足を止めた。
「悪い、夏美。先に帰っていてくれ。クライアントから急な連絡が入って、これから直行しなきゃ。
家でゆっくり休んでてね」
言い終わるか終わらないかのうちに、ドアが閉められ、修二の姿は空港の人混みに吸い込まれるように消えた。
夏美は震える指で医者の番号を押した。
「三日後で中絶手術をお願いします」