夫が初恋と結婚し、攻略に失敗した私は彼を忘れた第3話
第3話は約2,029文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のうち最後の章です。第4話は公式アプリで続きます。
「今、依子が戻ってきた。正直、お前から今すぐ逃げ出したい。これで満足か?」
怒りで目尻を赤くしながら、秀夫は歯を食いしばるように言い放つ。
耳元で、ぶわっと轟音が鳴った。心の奥で、最後の支えが崩れ落ちる。
――十分すぎるほど、残酷で、痛い言葉だった。
「マスター。攻略対象の好感度が継続的に低下しています。ここは一度、折れてみませんか?」
焦ったシステムの声が響く。
けれど、もう遅い。心は、すでに灰になっていた。
私は無意識に数歩下がり、ぎこちない笑みを浮かべる。
「……わかった。
都合のいいときでいい。離婚届、用意して」
それだけ言い残し、私は振り返らずに病室を出た。
自分でも驚くほど、決然とした態度だったのだろうか、一瞬、彼の顔に動揺が走ったのが見えた。
――でも、もうどうでもいい。期待もしない。
帰り道、胸にじわりと悲しみが込み上げる。私たちは、どうしてここまで来てしまったのだろう。
確かに、あの頃は。お互いを、大切に思っていたはずなのに。
依子は、秀夫にとっては大事な初恋相手。そして、私の攻略における最大の障害だった。
システムが任務を提示した時点で、彼と依子はすでに恋人同士だった。難易度が高いのも、当然だった。
……
最初に彼と出会ったのは、高校の頃。
一目惚れだった。攻略対象だから、ではない。秀夫は、ただ純粋に優秀で、魅力的だった。
近づくために、あらゆる手を尽くした。ようやく親友という位置にたどり着いたが、それ以上、彼の心には踏み込めなかった。
一方依子は、彼の幼なじみ。幼少期から、人生のすべてを共有してきた存在だ。
だが、高校三年生の最も大事な時期に、彼女は何も告げず、海外へ去った。
その出来事が原因で、秀夫は大学受験に失敗し、浪人した。
深く傷ついた彼の隙に、私は寄り添い、執拗に側に居続けた。一緒にいれば、いつか愛してくれる。そう、信じていた。
そしてついに、彼は私と付き合うことを選んだ。
プロポーズが成功したその日、好感度は一気に最大値へ到達した。
本来なら、私はそのままこの世界を離れられた。けれど――彼が用意してくれた婚約指輪を見た瞬間、私は離脱の権利を捨て、彼と生きる道を選んだ。
新たな攻略任務が始まり、失敗時の罰は「消去」から「記憶喪失」に変更された。
結婚後の数年間、私たちは互いを尊重し合い、誰もが羨む模範夫婦だった。
このまま、続いていくのだと信じていた。
――依子が、帰国するまでは。
そこから、すべてが変わった。
温もりは消え、今や彼は、依子のために私と離婚しようとしている。
ようやく、理解した。どれだけ穏やかな年月を過ごしても、彼は一度も、私を愛していなかった。
本当に、一度も。
……
秀夫の離婚は、本気だった。
すぐに弁護士を立て、協議書を作成し、噂は瞬く間に広がった。
友人も親戚も、真偽を確かめる電話をかけてくる。同情の視線が、痛いほど突き刺さる。
財産分与の内容は、婚前の取り決め通り、八割が彼のもの。
異論はなかった。
不利な条項ばかりでも、私は黙って署名した。
「朱」の字を書き終えた瞬間、胸が激しく締めつけられる。
歯を食いしばり、最後まで、名前を書き切った。
書類を受け取った秀夫は、信じられないほど、幸せそうに笑った。
視界が滲む。心が、無数の蟻に食い荒らされるように苦しい。
立っていられず、机に突っ伏し、拳で胸を叩いて、ようやく耐えた。
――これは、警告だ。
システムが、私にやめろと告げている。この書類が成立すれば、私は罰を受ける。
だが、彼は冷たく言い放つ。
「光悦、何を演じてる。同情でも引きたいのか?俺は、まったく興味ない」
苦肉の策だと決めつけ、彼は私を急かし、車へ連れて行った。
役所へ直行し、番号札を取る。彼の隣に腰を下ろす。
私は服を指さし、結婚式の日と同じだと、覚えているか尋ねた。
彼は、ちらりと視線を上げただけ。
「覚えてない。
何年も前のデザインだろ。捨てればいい」
そう言って、わざわざ別の椅子へ移動した。
――彼にとって古いのは、服だけじゃない。私自身だ。
私は黙り、番号が呼ばれるのを待った。
手続きは、わずか十五分。離婚証明を受け取り、建物を出る。彼は、わざと足早に先を行く。私を、早く振り切りたかったのだ。
「体調悪いのに、来るなんて。風に当たったらどうする」
車の前で、彼は信じられないほど優しい顔をしていた。
助手席の依子は、もう取り繕う気もなく、勝者の笑みを私に向ける。
車は走り去り、その場に残されたのは、私一人。
――婚姻関係、法的に無効。
任務失敗。
システムが記憶消去を開始する直前、問いかける。
「本当に、もう一度試さないですか?」
私は、首を横に振った。
長い苦しみが、終わる。そう思うと、不思議と気持ちは軽かった。
「マスター。罰則がすぐに始まります。ご準備ください」
どこか悔しさを滲ませた声。
私は目を閉じ、自嘲を飲み込んで答えた。
「……わかった」
記憶を失う方法など、いくつも想像していた。だが、こんなにも――単純で、乱暴なものだとは、思っていなかった。