娘の角膜まで、あの子に渡すつもり?第1話
第1話は約2,964文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
私は桐谷千尋(きりたに ちひろ)。
娘の桐谷咲良(きりたに さくら)との最後のお別れの日だというのに、夫の桐谷浩介(きりたに こうすけ)は姿を見せなかった。
咲良の遺影を胸に抱いたまま、浩介に数十回も電話をかけた。
けれど、一度も出なかった。
そんなとき、不動産会社の担当者から1本の動画が送られてきた。
「浩介、翔太のこと甘やかしすぎ。もう実のパパより、よっぽどパパらしいじゃない」
動画の中で、浩介は水野梨沙(みずの りさ)の息子、水野翔太(みずの しょうた)の手を引き、翔太が通う予定の小学校の学区内でマンションを内見していた。
ベランダを見ていた浩介に、梨沙が尋ねた。
「浩介、本当にここ、買ってくれるの?」
浩介は笑って、翔太の頭を優しく撫でた。
「もちろん。翔太の学校のこともあるし、早めに決めないとな」
そのやり取りを見ているうちに、咲良が亡くなる前の晩のことを思い出した。
咲良は痛みで顔を青ざめさせながらも、私の手をぎゅっと握って聞いた。
「ママ、パパはお薬買いに行ってくれたの?」
私は咲良の目を見ることができず、ただうなずくしかなかった。
すると、咲良はにこっと笑った。
「じゃあ、起きて待ってる。私が寝ちゃったら、パパ、帰ってきてもまたこっそり行っちゃうかもしれないもん。
ママ、私、これからはちゃんとお薬飲むから……もう私を置いていかないでって、パパに言って」
けれど咲良は、最後まで待っても、パパに会えなかった。
しばらくすると、病院のスタッフに案内され、アイバンクの担当者が咲良のもとへやってきた。
「ご主人の浩介さんからは、すでに献眼について承諾するご意思を伺っています。お嬢さまの角膜は、現時点では移植に提供できる見込みです。
実際にご提供いただくには、ご家族の承諾書が必要になります。処置を行う前に、お母さまにも詳しくご説明したうえで、ご意思を確認させていただけますか」
* * *
夕方になって、浩介はようやくやってきた。
「どうして咲良の薬、止めたの?」
私が聞くと、浩介はうんざりしたように眉をひそめた。
「治療にいくら金をかけたって、きりがないだろ。翔太だってもうすぐ小学生なんだ。これから何かと金がかかるんだよ」
私は浩介を見つめたまま、何も言えなかった。
咲良がどれだけ必死に生きようとしていたかなんて、浩介にはどうでもいいらしい。
胸に抱いた遺影には、髪を二つに結び、目を細めて笑う咲良が写っていた。
咲良が一番気に入っていた写真で、浩介が珍しく遊園地に連れていってくれた日に撮ったものだった。
けれど、親子で過ごせたのはたった20分。梨沙から電話が入ると、浩介は咲良を私に預け、すぐに帰ってしまった。
それでも、咲良はずっと嬉しそうだった。
パパに抱っこしてもらったことも、パパからお日さまみたいな匂いがしたことも、何度も私に話してくれた。
そんな浩介が今、咲良のすぐそばに立っていた。
それなのに、泣いた様子すらなかった。
アイバンクの担当者が書類を開き、声を落として言った。
「ご主人には、すでに献眼についてご説明し、承諾書にもご署名いただいています。ただ、処置に入る前に、お母さまのご意向も確認させてください」
書類の署名欄には、浩介の名前があった。
日付は、咲良が息を引き取った日だった。
そのとき私は病室のベッドのそばに膝をつき、咲良の手をどうしても離せずにいた。
浩介は姿を見せなかった。
けれど、咲良が亡くなったことは知っていた。
それなのに病室には来ず、献眼の書類には署名していた。
私は顔を上げ、浩介を見た。
「最初から、咲良の角膜を提供するつもりだったの?」
浩介は私と目を合わせようとしなかった。
「医者から、角膜は提供できる可能性があるって聞いたんだ。提供できるなら、誰かの役に立ったほうがいいだろ」
遺影を抱く手に力が入った。額縁の角が手のひらに当たり、じんと痛んだ。
「どうして私に何も言わずに決めたの?」
浩介は眉間にしわを寄せた。
「俺は咲良の父親だ」
思わず、笑いが漏れた。
咲良が生きていたころは、父親らしいことなんて何一つしなかったくせに。
咲良が初めて抗がん剤治療を受けた日、浩介は梨沙の家で翔太の誕生日を祝っていた。
咲良が高熱でけいれんを起こし、私が必死に電話をかけたとき、浩介は冷たく言い放った。
「翔太だって泣いてるんだ。咲良のことを理由に、いちいち俺を呼び戻そうとするな」
咲良が痛みに耐えきれず、ベッドの上で身をよじりながら「パパ、お薬いつ買って帰ってくるの?」と聞いていたそのときも、薬を止めたのは浩介だった。
咲良が二度と目を開けなくなった今になって、父親面をするなんて。
私は目の前の書類を押し返した。
「同意しません」
担当者はわずかに驚いたようだったが、すぐにうなずいた。
「承知しました。では、献眼の処置は行いません」
浩介の顔が険しくなった。
「千尋、意地を張るな。咲良はもう死んでるんだぞ」
咲良はもう死んでいる。
その一言で、全部終わったことにするつもりなのだろうか。
生きている間は何もしてやらなかったくせに、今度はあの子に残った最後のものまで、勝手に差し出すつもりなのか。
私は浩介を見つめた。声がかすれた。
「そこまでして助けたいのは、誰なの?」
浩介は答えなかった。
そのとき、浩介のスマホが鳴った。
スマホを見た途端、浩介の表情が変わった。
着信画面には「梨沙」と表示されていた。
電話に出ると、梨沙の泣きそうな声がこちらにまで聞こえてきた。
「浩介、翔太がまた目が痛いって……手術、いつできるのってずっと聞いてくるの」
浩介はとっさに背を向けた。
「大丈夫だ。すぐ行く」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が冷えた。
その瞬間、ようやくわかった。
角膜移植を待っていたのは、翔太だった。
だから浩介は、咲良の献眼にここまでこだわっていた。
咲良が最後まで待っていた薬は、とうとう届かなかった。
それなのに翔太のためなら、浩介は必要なものを何でも用意した。
そして今度は、咲良の角膜まで翔太に回ることを望んでいたのだ。
私はもう一度、書類へ手を伸ばした。
次の瞬間、浩介に手首をつかまれた。
「千尋、翔太はまだ子どもなんだぞ」
私は浩介を見上げた。
「咲良だって、まだ子どもだったよ」
手首をつかむ浩介の力が、一瞬だけ緩んだ。
私はその手を振りほどいた。
安置室は、息苦しいほど静かだった。
咲良は大好きだったピンクのワンピースを着て、静かに横たわっていた。枕元には白い花が供えられていた。
そのワンピースは、私が買ったものだった。
咲良はもったいないと言って、ずっと大事にしまっていた。パパが帰ってきたら着て見せるんだと、楽しみにしていたのに。
けれど浩介は、最後まであの子にちゃんと目を向けようとしなかった。
私はうつむき、提供には同意しないと改めて伝え、確認書に署名した。
手が震えて、名前を書くだけなのに何度もペン先が止まった。
書き終えた紙を見た途端、浩介の顔つきが変わった。
「後悔するぞ」
私は書類を担当者に返した。
「咲良はもう自分で嫌だって言えないから、私が代わりに断ります」
浩介は私を見た。
「翔太は角膜移植を待ってるんだぞ。それでも同意しないっていうなら、もう勝手にしろ」
そう言って、浩介は部屋を出ていった。
扉が閉まる音が、静かな部屋に響いた。
私は咲良の遺影を強く抱きしめたまま、追いかけなかった。