章へスキップ

娘の角膜まで、あの子に渡すつもり?第2話

第2話は約2,069文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。

咲良を見送ったあと、私は遺影を抱いて家に戻った。

エレベーターを降りると、自宅の玄関前にいくつもの段ボール箱が置かれていた。

中には、咲良の小さなワンピースや絵本、クマのぬいぐるみが無造作に詰め込まれていた。お気に入りだった黄色いレインコートは片袖が箱からはみ出し、床に垂れて埃で汚れていた。

私はその場に立ち尽くし、しばらく動けなかった。

部屋の中から、子どもの楽しそうな声が聞こえてきた。

「ママ、この部屋すっごく広い!僕、ここで寝たい!」

ドアを開けると、翔太が咲良のベッドの上で飛び跳ねていた。

梨沙はベッドの端に腰かけ、咲良の髪留めを手にしたまま、困ったような顔をしていた。

私に気づくと、慌てて立ち上がった。

「千尋さん……お帰りなさい」

そのとき、浩介がベランダから出てきた。手には合鍵があった。

「梨沙と翔太は、しばらくここに泊める。病院にも行きやすいしな。咲良のものは、とりあえず片づけてくれ」

私は浩介を見た。

「ここは咲良の部屋よ」

浩介は合鍵をテーブルに置いた。

「もう使わないだろ」

あまりにも平然とした言い方に、胸の奥が痛んだ。

梨沙はうつむき、目を潤ませた。

「やっぱり私たち、出ていったほうがいいんじゃない?千尋さんもつらいだろうし……」

浩介が眉をひそめた。

「その必要はない」

そう言って私を見ると、声を低くした。

「翔太は目の調子が悪い。そのせいで彼は不安になってるんだ。遺影や病院の書類なんか、目につくところに置くな」

胸に抱いていた遺影が、急にずしりと重く感じられた。

今にも腕から滑り落ちてしまいそうだった。

そのとき、翔太がベッドから飛び降りようとして足を滑らせ、ベッド脇の小さな棚にぶつかった。

はずみで写真立てが床に落ち、ガラスが音を立てて砕け散った。

咲良が4歳の誕生日に撮った写真だった。

中の写真は翔太の足元まで滑っていった。

驚いて一歩下がった翔太の靴が、ちょうど咲良の顔の上に乗った。

「翔太!」

梨沙はすぐに駆け寄り、翔太を抱き寄せた。

浩介も駆け寄った。

けれど、真っ先にしゃがみ込んで確かめたのは翔太の足だった。

「ガラス、刺さってないか?」

私は床にしゃがみ、写真を拾った。

割れたガラスで指先が切れ、咲良の笑顔のそばに血がぽたりと落ちた。

浩介がようやくこちらを見た。

「血をあちこち垂らすなよ。翔太が怖がるだろ」

私は顔を上げた。

「咲良は、あなたの娘なのよ」

浩介の顔つきが険しくなった。

私は黙って写真の汚れを拭った。

けれど、咲良の顔についた靴跡は、何度拭いても消えなかった。

翔太は梨沙にしがみつきながら、小さな声でつぶやいた。

「死んだ子が寝てたベッドなんて、僕やだ」

梨沙は慌てて翔太の口元を手で覆った。

「子どもの言うことだから……千尋さん、気にしないで」

私は立ち上がり、ベッドの上にあったクマのぬいぐるみを抱き上げた。

ずいぶん古びたクマで、片方の耳が少し破れていた。

咲良が3年間、ずっと大事にしていたぬいぐるみだった。

お腹には録音ボタンがついていた。

まだ字をうまく書けなかったころ、咲良はパパに伝えたいことがあるたび、そのボタンを押して声を吹き込んでいた。

パパの帰りが遅くても、これならちゃんと伝えられると思っていたのだ。

けれど浩介は、その声を一度も聞かなかった。

クマを見つけた翔太が、すぐに手を伸ばした。

「浩介さん、これ、僕にちょうだい」

私はぬいぐるみを抱えたまま、一歩下がった。

「だめ」

浩介はとうとう苛立ちを隠さなくなった。

「千尋、ただの古いぬいぐるみだろ」

「これは咲良のよ」

「咲良にはもう必要ない」

私は浩介をまっすぐ見つめた。

梨沙がそっと浩介の袖を引いた。

「もういいよ。翔太、これはやめておこう」

すると翔太は、すぐに泣きだした。

「やだ!だって浩介さん、この部屋はこれから僕の部屋だって言ったもん!」

浩介の表情が一瞬こわばった。

私は浩介を見た。

「……この部屋まで、渡すつもりだったの?」

浩介は私から目をそらした。

「ここは俺の家でもある。どの部屋をどう使おうが、俺にだって決める権利はあるだろ」

乾いた笑いが漏れた。

ここは、咲良がずっと帰りたがっていた家だった。

入院するたび、咲良はこの家と、パパとママと自分の絵を描いていた。

元気になって、またここへ帰る日をずっと夢見ていた。

それなのに、咲良を見送ったばかりだというのに、浩介はもうあの子の部屋を別の子に明け渡そうとしていた。

私は床に置かれていた段ボール箱を抱え上げた。

浩介が冷たく言った。

「今度はどこへ行く気だ」

私は振り返らなかった。

「咲良を連れて、ここを出る」

その夜、私は咲良の遺影を胸に抱き、遺品の入った段ボール箱を足元に置いたまま、マンションの敷地内のベンチで朝を迎えた。

夜勤の警備員さんが、紙コップに入った温かいお茶を差し出してくれた。

「もう部屋に戻ったほうがいいよ。外は冷えるから」

私は、上の階で明かりのついた窓を見上げた。

咲良が病気で苦しんでいたころ、あの部屋に咲良のための灯りがともることは、一度もなかった。

なのにその夜は、梨沙と翔太のために、朝まで灯りが消えることはなかった。

第4話は公式アプリで閲覧できます

この目録には次の本の第1章から第3章までが収録されています: 娘の角膜まで、あの子に渡すつもり?。本の残りは公式アプリでお読みいただけます。

お客様のコード S21314

  1. スマートフォンに公式アプリをインストールしてください。
  2. アプリを開き、コードを入力するとこの本に移動します。
アプリで続ける

カタログの言語を選択

6言語、ひとつの総合カタログ。言語ごとに独自の請求記号と冒頭の章があります。