娘の角膜まで、あの子に渡すつもり?第3話
第3話は約2,319文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のうち最後の章です。第4話は公式アプリで続きます。
夜が明けるころ、夫婦で使っていた口座から600万円の振込が完了したという通知が、スマホに届いた。
銀行アプリを開くと、振込先には不動産会社の名が表示されていた。摘要欄には「住宅購入代金」とある。
その画面を見たまま、スマホを握る指が少しずつ冷たくなっていった。
母の形見のブレスレットを売り、結婚前に買ったマンションも担保に入れた。デザイナーとして働きながら貯めてきたお金まで、全部あの口座に入れていた。
いざというとき、咲良の治療に使うつもりだった。
咲良が入院したとき、浩介はこう言った。
「夫婦なんだから、金のことで疑い合うのはやめよう」
私は、その言葉を信じた。
咲良の遺影を抱え、タクシーで不動産会社へ向かった。
店に入ると、梨沙がソファに座って書類に署名していた。
浩介はその後ろから身をかがめ、梨沙の手に自分の手を重ねるようにして、書類への署名を手伝っていた。
あまりに親しげな様子に、胸の奥がずきりと痛んだ。
テーブルには不動産の売買契約書が広げられ、買主欄には梨沙の名前があった。その横には、翔太の入学に必要な書類まで置かれていた。
担当者がにこやかに声をかけた。
「水野様、よかったですね。桐谷様も翔太くんのことを本当に大切にされてますね。この辺りは学校が近いので人気ですから、いい物件は出てもすぐ決まってしまうんですよ」
梨沙はうつむき、照れたように笑った。
「この子、ほんと運がいいんです」
私は2人のところまで歩いていき、銀行アプリの振込履歴を開いたスマホをテーブルに置いた。
「浩介、これ……どういうこと?」
私を見るなり、浩介の顔が険しくなった。
「どうしてここがわかった?」
私は契約書を指さした。
「そのお金、私が入れた分も使ったの?」
梨沙の手からペンが落ち、テーブルの上を転がった。
「千尋さん、違うの。浩介が先に立て替えてくれただけで……翔太の入学まで時間がなくて。あとでちゃんと返すつもりだから」
私は浩介を見た。
「咲良の薬は、平気で後回しにしたのに?」
浩介は契約書を閉じた。
「もう払った」
「返してもらって」
「もう無理だ」
息が詰まった。
「亡くなる前の2週間、咲良は痛くて、夜もまともに眠れなかった。薬さえ続けられれば、次の治療法が決まるまでは何とか持ちこたえられるって、先生も言ってたのに」
浩介は苛立ったように眉をひそめた。
「千尋、いい加減、現実を見ろよ」
私は浩介を見据えた。
「何が現実なの?」
「咲良の病気は治らない」
まるで損得の話でもするように、浩介の口調は淡々としていた。
「治る見込みもないのに、金をつぎ込んで無理に治療を続けさせて、毎日注射を打たれて、吐いて、痛みに苦しむ。そんな思いをさせ続けるほうが、よっぽど残酷だろ」
手が震えた。
「咲良は生きたがってた」
浩介は少し黙ってから、低い声で言った。
「そう思いたかったのは、千尋のほうだろ」
私は思わず手を上げ、浩介の頬を叩いた。
乾いた音が店内に響き、周囲の視線が一斉にこちらへ向いた。
梨沙はすぐに浩介をかばうように前へ出て、涙をこぼした。
「千尋さん、やめて。浩介を叩かないで。家なんてもういらないから……全部、私が悪かったの」
浩介は梨沙を背後にかばい、冷たい目で私を見た。
「謝れ」
私は浩介を見返した。
「私が謝るの?」
「梨沙は、咲良の薬に使うはずだった金だなんて知らなかった」
「あなたは知ってたでしょ?」
浩介は何も言わなかった。
私はテーブルの上の契約書を手に取り、1枚ずつめくっていった。
すると、書類の間から保険の解約通知書が滑り落ちた。
契約者欄には浩介、被保険者欄には咲良の名前があった。
解約日は半年前。解約返戻金は720万円だった。
目の前が真っ暗になり、とっさにテーブルの角につかまって、どうにか倒れずに済んだ。
半年前、咲良の容体が初めて急変し、命が危ないと言われた。
私は診察室の前で浩介にすがり、治療費を何とかしてほしいと必死に頼み込んだ。
浩介は私を抱きしめて言った。
「心配するな。俺が何とかする」
私は、その言葉を信じていた。
まさか浩介の言う「何とかする」が、咲良にかけていた保険を解約することだったなんて。
しかも、その解約返戻金まで翔太のための家に回していた。
私はその書類を浩介の目の前に突きつけた。
「これも、咲良をこれ以上苦しませないためだったって言うの?」
浩介の顔色が変わった。
梨沙も慌てて口を挟んだ。
「千尋さん、私、本当に保険のお金だなんて知らなくて……」
思わず笑った。
「何も知らないのね」
私の娘の薬に使うはずだったお金で家を買ってもらったことも、浩介が咲良の薬を止めたことも。
そして咲良を見送ったその日に、あの子の角膜まで翔太に回ることを浩介が望んでいたことも。
私が詰め寄ると、梨沙は思わず後ずさった。
次の瞬間、浩介が私の手首をつかみ、強引に店の外へ連れ出した。
その拍子に肩がガラス扉にぶつかり、痛みで一瞬目の前が白くなった。
「千尋、いい加減にしろ」
私は浩介の手を振り払った。
「まだ終わってない」
自分の声とは思えないほど、かすれていた。
「浩介、あとどれだけ咲良の命をお金に換えたら、気が済むの?」
浩介は何も言わず、唇を固く結んだ。
「今はまともじゃないだろ」
私はうなずいた。
「娘が死んだのよ。まともでいられるわけないじゃない」
浩介は一瞬言葉を失った。
けれど、すぐに冷たい声で言った。
「もう梨沙と翔太に関わるな」
浩介の肩越しに店内を見ると、翔太がガラス越しにこちらを見ていた。
手には、不動産会社でもらった小さな鍵型のキーホルダーを握っていた。
咲良は死ぬまで、パパが薬を持って帰ってくるのを待ち続けた。
それなのに翔太はもう、新しい家の鍵をかたどったキーホルダーを、嬉しそうに握っていた。