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恋したのは、もう一人のあなただった第1話

第1話は約2,434文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。

妊娠が分かって、柴崎渚(しばさき なぎさ)が一番最初に訪れたのは弁護士事務所だった。弁護士に離婚協議書を公正証書にしてもらい、離婚届の提出まで一任するためだ。

「柴崎さん、離婚協議書を公正証書化する場合、手続きにはおよそ1ヶ月ほどかかります。すべて完了しましたら、こちらで離婚届の提出も代行いたします」

渚は穏やかなに頷いた。「分かりました。よろしくお願いします。ただ、今日は夫が仕事の都合で来られないんです。私一人でも、手続きをお願いすることはできますか?」

弁護士はわずかに眉を寄せ、困ったような表情を浮かべた。「できれば、ご夫婦お二人でお越しいただくのが望ましいのですが……」

「彼も離婚には同意しています。ただ、仕事が忙しくて時間が取れないだけです。必要でしたら、今ここで電話して、先生に直接お話しさせます」

そう言うと、渚はスマホを取り出し、夫・柴崎洋介(しばさき ようすけ)の番号を押した。「もしもし。洋介、少し話したいことが――」

最後まで言い終える前に、冷え切った声が言葉を遮った。

「前にも言っただろ?好きに決めればいいって。俺は忙しいんだ。お前のことに付き合ってる暇はない」

* * *

その直後、電話の向こうから甘えるような女性の声が聞こえてきた。

「洋介、リンゴは剥かなくていいよ。もうお腹がいっぱいだから……」

石森美波(いしもり みなみ)の声だった。

次の瞬間、通話は一方的に切られた。

渚はスマホを静かに下ろし、弁護士に微笑みかける。「……今のを聞いていただければ、分かっていただけたかと思います」

弁護士は難しい表情のまま、しばらく考え込んでいたが――やがて、小さく息を吐いた。「……分かりました。では、こちらで手続きを進めましょう」

「ありがとうございます」渚は静かに頭を下げた。

弁護士事務所を出た渚は、ようやく肩の荷が下りたような気がした。足取りも自然と軽くなる。

家に戻ると、気分は驚くほど晴れやかだった。渚は大切にしまってあったフォトフレームを取り出し、柔らかな布で一つひとつ、丁寧に磨き始めた。

その様子を見かけた使用人たちは、いつものことだというように、ひそひそと顔を寄せ合う。

「奥様って、本当にご主人様のことがお好きなのね。あの写真、1日に何度も眺めるし、フォトフレームだって毎日欠かさず磨いてるもの」

「好きでも仕方ないわよ。ご主人様は奥様のことなんて、ちっとも愛してないわ。ずっと冷たくしてるじゃない」

「そうよね。石森さんが海外にいた頃から、しょっちゅう会いに行ってたでしょう?今は帰国したから、毎日のように一緒にいるみたいだし……家にも、ほとんど帰っていらっしゃらないわ」

使用人たちの声には、渚への同情が滲んでいた。けれど、渚はそんな話など少しも気に留めなかった。

そもそも――写真に写っているのは、洋介ではない。渚が愛していたのも、最初から洋介ではなかった。

彼女が洋介と結婚した理由はただ一つ。彼が、柴崎拓海(しばさき たくみ)とまったく同じ顔をしているからだ。

洋介と拓海は、一卵性双生児だった。

渚と拓海は大学時代に出会い、恋人になった。卒業したら渚を家族に紹介し、そのまま結婚しようと拓海が約束していた。

――けれど、その約束が叶う前に、拓海は事故でこの世を去った。

あまりにも突然のことだった。最期の言葉を交わすことすらできないまま、渚は愛する人を永遠に失った。

拓海ほど深く、惜しみなく愛してくれた人がもう現れない。この先、誰かを同じように愛することも、きっとできない。

そう思った彼女は、せめて拓海と似た顔をした子供が欲しかった。その子と共に、残りの人生を歩んでいきたい――

そのために選んだ相手が、拓海の弟である洋介だった。

渚は洋介に近づき、彼と結婚するためなら、どんなことでもした。周囲が呆れるほど、時には自分でも馬鹿らしいと思うほど、必死になって彼を追いかけた。

ちょうどその頃、洋介が想いを寄せていた美波は海外へ渡っていた。家からの結婚の催促にも、洋介はうんざりしていたらしい。そんな状況もあって、洋介は渚からの結婚の申し出を受け入れた。

ただし、条件があった。

――渚のほしいものは何でも与えるが、彼女を愛することだけはできない。

あまりにも残酷で、屈辱的な条件だった。それでも渚はためらわずに頷いた。

愛など、初めから求めていなかったのだから。

洋介は、渚が自分に夢中だからこそ、あの条件まであっさり受け入れたのだと思っていた。だから、それ以上深く考えようともしなかった。

結婚式当日、彼は美波から「風邪を引いた」と連絡を受けると、迷うことなく式をすっぽかした。渚を大勢の招待客の前に残したまま、美波のもとへ向かったのだ。

結婚後も、洋介は毎週のように海外へ飛び、美波に会いに行った。しかも、その航空券を手配するのは渚の役目だった。

新居のベッドサイドには美波の写真が飾られ、書斎の一角には、彼女のために準備したという数々の品が積み上げられていた。家の裏庭にまで、美波が好きだという花を植えさせた。

そんな数々の振る舞いは、いつしか渚を社交界の笑いものにした。

けれど、渚は一度だって気にしたことがない。ただ黙って、洋介の妻としての役目を果たしていた。

唯一、彼女が徹底したのは――洋介が家に帰ってくる日、必ず彼と夜を共にしたことだった。

それさえも洋介は、渚が自分を愛してやまない証だと思い込んでいた。

彼自身が、美波を愛するのと同じように。

洋介は美波を深く愛している。顔立ちがよく、家も裕福の彼だが、美波を失うことだけを恐れている。その恐怖に縛られ、結局、気持ちを伝えることすらできなかった。

そうしているうちに、美波は別の男と付き合い、そのまま海外へ渡ってしまった。

渚は一度も自分の気持ちを説明したことがない。その必要がなかったからだ。

そして今――ようやく妊娠した。

欲しかったものは、すでに手に入った。だから、もうここにいる理由はない。

そろそろ、この結婚を終わらせる時だった。

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