恋したのは、もう一人のあなただった第2話
第2話は約1,961文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
翌朝。
長いこと家に寄りつかなかった洋介が、珍しく戻ってきた。
渚の顔を見るなり、「お前、雑炊を作るの、得意なんだろ?」と言った。
渚が口を開くより早く、洋介は続けた。「美波が食べたがってる。今すぐ作って、俺と一緒に届けに行ってくれ」
さすがに断ろうとして、渚は顔を上げた。そのとき、洋介の手首にある腕時計が目に入った。
渚の表情が、わずかに変わる。
「……いいよ。石森さんが満足するものを作る代わりに、その腕時計を私にくれない?」
洋介は驚くこともなく、当然のように腕時計を外し、渚の前に置く。
「持っていけ」
こうしたやり取りは、今に始まったことではなかった。洋介は何かにつけて渚を使い、美波のためにあれこれとやらさせた。
美波に会いに行くための航空券を手配させたり。彼女の好物を買うために、店の前に並ばせたり。あるときは、美波への贈り物を選ばせることさえあった。
渚は一度も断らなかった。その代わり、必ず何かしらの「報酬」を洋介に求めた。
長年使い込まれた万年筆。いつも身につけている腕時計。あるいは、何度も読み返された1冊の本。
どれも高価な品ではない。ただ、洋介が長く使ってきたものばかりだった。
渚は腕時計を受け取ると、大切そうに箱へしまう。その様子を見ていた洋介が、ふと口を開いた。「……そんなに俺のことが好きなのか?俺が使ってた物なら、何でも欲しいってわけか」
渚の指先が、ぴたりと止まった。
やはり、そう思われているのか。
渚がこれまで洋介に求めてきたものは、すべて拓海のものだった。
拓海が亡くなったあと、彼の遺品は洋介がすべて引き取っている。大切な兄の形見だからこそ、洋介はそれらを身近に置き、今も当たり前のように使っていた。
渚がそれらの物を集めていたのは、拓海を思い出すため。拓海の面影を、少しでもそばに残しておくためだった。
けれど、それを洋介に説明するつもりはなかった。
渚は何も言わず、ただ微笑んだ。「ええ、すごく愛しているよ」
――あなたのお兄さんを。
なぜだろう。
そのとき初めて、洋介は渚の瞳に宿った深い想いに、心を揺らされた。
ふいに、この数年間のことが脳裏をよぎる。
何を頼んでも拒まず、彼女は自分や美波のために奔走していた。
胸の奥が、わずかにざわつく。
洋介は眉間に皺を寄せ、しばらく黙り込む。やがて我に返ると、まるで先ほどの感情などなかったかのように、いつもの冷たい表情に戻った。
「……いいから、早く作れ」
雑炊を作り終えると、渚と洋介は美波が入院している病院へ向かった。
車内でふいに、洋介が昨日の電話のことを思い出した。「そういえば昨日、電話で俺に何か話そうとしてただろ。話ってなんだ?」
渚は保温ポットを抱えたまま、窓の外に視線を向けている。「大したことじゃない。もう、自分で決めたから」
あまりにもあっさりした返事に、洋介は短く「そうか」とだけ答えた。そして、少し間を置いてから言う。「美波は風邪でしばらく入院する。ここ数日、俺がそばにいてやらないといけない。だから、よほどのことがない限り、俺に連絡しないでくれ」
「分かった」渚はいつものように素直に頷いた。不満げな様子は、微塵もない。
そんな彼女を見ながら、洋介はふと考えた。
渚は昔から、自分の言うことに逆らったことがない。どんな理不尽な頼みごとをしても、渚は黙って受け入れてきた。
本当に、それほどまでに自分を愛しているのだろうか。
自分が別の女を大切にしている姿を目の前で見せつけられて、それでもなお、そばにいられるほどに。
やがて車は病院に着き、2人は美波の病室を訪れた。
渚の姿を見た美波は、目を丸くする。「私、ちょっと言っただけなのに……本当に渚さんを連れてきたの?」
渚は保温ポットを置き、器を取り出して雑炊をよそいながら、淡々と答えた。「石森さんが何気なく口にしたことでも、洋介はちゃんと覚えていますよ」
その言葉に、洋介は意外そうに渚を見た。美波のために動いた自分を、渚は責めるどころか、むしろ自分と美波の関係を応援するようなことを言ったのだ。
――それなのに。
なぜか、少しも嬉しくなかった。
胸の奥に、理由の分からない居心地の悪さが残る。洋介は眉を寄せると、渚の手から器を取った。
「もういい。お前は帰ってくれ」
「……分かった」
渚は何も聞かなかった。バッグを手に取り、あっさりと背を向ける。
病室の扉を閉める瞬間、渚は最後に一度だけ、中を振り返った。
洋介は、雑炊の入った器を手に美波のそばに座っていた。
「まだ少し熱いから、ゆっくり食べな。そうだ。お前の好きなケーキも買ってきたぞ」
美波の顔がぱっと明るくなる。「本当?あのケーキ、近くの店舗じゃ全部売り切れだったのに、わざわざ買ってきてくれてありがとう!」
渚は、そっと扉を閉めた。
振り返ることはせず、そのまま静かに、病室をあとにした。