恋したのは、もう一人のあなただった第3話
第3話は約3,600文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のうち最後の章です。第4話は公式アプリで続きます。
それからの日々は、洋介の言ってた通りになった。美波の世話をするため、彼はほとんど病院を離れなかった。
会社で急ぎの仕事があれば、秘書がノートパソコンと書類を病院まで運び、洋介は美波のそばで仕事を片づける。
美波が何か食べたいと言えば、どんなものでも手に入れた。欲しい果物が海外のものなら、洋介はすぐにプライベートジェットを飛ばして買い付けさせた。届いたばかりの果物を洗わせ、その日のうちに美波の食卓へ並べる。
さらに、少しでも食事を取らせるために、ひと口食べるたびに高価なアクセサリーを1つ渡す――
そんな常識外れの話は連日トレンドに上がり、何日も大きな話題になっていた。
けれど、渚はその報道を目にしても、ただ静かに微笑むだけだった。
そして、川北大学の創立百周年記念式典の日。渚は卒業生の一人として、招待を受けていた。
大学の正門で受付を済ませたところで、人混みの中にひときわ目を引く姿を見つける。
――洋介と、美波。
まさか2人まで来ているとは思わなかった。しかも、向こうもすでに渚に気づいている。
今さら避けるわけにもいかず、渚は2人のもとへ歩いていった。
先に声をかけてきたのは、美波だった。「渚さんも、川北大学の卒業生なんですか?」
「ええ」
渚が頷くと、洋介がわずかに眉をひそめた。「卒業年度は?」
「2017年です」
その答えに、美波が目を見開く。「じゃあ……洋介のお兄さんと同じ学年じゃないですか」
そして、何かを思い出したように、さらに言葉を続けた。
「渚さんって、洋介のお兄さんとお知り合いだったんですか?確か、お兄さんには恋人がいて……すごく大切にされていたそうですよね。もうすぐ家族に紹介するところだったって聞きました。でも、残念なことに――」
そこで、美波の声が不意に途切れた。
しまった、というように顔色を変える。
「ご、ごめんなさい……」と、慌てて洋介に謝る。
拓海の死は、柴崎家の人間にとって触れてはならない話題だった。長い年月をかけて、ようやく治りかけているその傷を、あえて誰かに見せようともしない。
渚の身体が、かすかに震えた。袖の下で、爪が掌に深く食い込む。胸を直接握りつぶされるような痛みに、うまく息ができなかった。
洋介の表情も、目に見えて険しくなっていた。けれど、相手が美波では強く責めることもできない。彼は話を変えるように口を開いた。
「……もう十分見て回っただろ。そろそろ食事にしよう」
……
3人でレストランへ向かうと、洋介はメニューを選ぶ際も美波の好みを最優先にした。テーブルに並んだ料理は、どれも美波の好きなものばかりだった。
食事が始まってからも、洋介は至れり尽くせりだった。えびの殻をむいてやり、ステーキは食べやすい大きさに切り分ける。魚料理が運ばれてくれば、丁寧に骨を取り除いてから、美波の皿へと移した。
渚はその光景を前にしても、特に何も感じなかった。
食事の途中で席を立ち、洗面所へ向かったときだった。
ちょうど個室の中から、美波が誰かと電話をしている声が聞こえてきた。
他人の私生活に興味はない。渚は、美波に自分の存在を知らせるため、ドアを軽く叩こうとした。
だがその時、洋介の名前が聞こえた。
「もちろん。こうしておかないと、洋介がいつまでも私に夢中でいてくれるわけないでしょ」
渚の手が止まった。
「洋介の奥さん?ふふ。あの人が何だっていうの?洋介がこの数年、彼女をどう扱ってきたかなんて、周りの人はみんな知ってるんだから。
大丈夫。ちゃんと加減は分かってるから。押してだめなら引いてみる、なんて――そういう駆け引きは、あなたより私のほうが得意よ。洋介が私のことを好きだってことに、私は気づいてないふりをしてればいいの。そうすれば、ずっと今みたいな関係でいられるでしょう?
そうしているうちに、彼はもっともっと私を好きになる。最後には、私なしじゃ生きていられなくなるわ」
そして、少し声を潜める。
「いい?簡単に手に入るものほど、大切にされないのよ」
――なるほど。
渚は思わず、小さく笑った。美波の頭の中には、最初からそんな計算があったのか。
誰もが純粋で優しいと信じていた洋介の想い人も、どうやら本当に無垢な女性というわけではなかったらしい。
そのとき、個室のドアが開いた。美波が出てきて、洗面台の前で服を整えている渚の姿を見つける。その瞬間、彼女の表情が変わった。
「……いつから、そこにいたんですか?」唇を噛み、強張った声で尋ねる。「どこまで聞きました?」
渚は答えなかった。すると、美波はすぐに続けた。「余計なことを洋介に言わないほうがいいですよ。どうせ彼は、あなたの言うことなんて信じませんから」
渚は美波の変わりようを見ても、ただ呆れただけだった。
手をハンカチで拭き取り、出口へ向かおうとする。
しかしその時、美波が渚の腕を掴んだ。
「……え?」
渚が振り返るより早く――
美波は、渚の手を引いたまま、勢いよく壁へと身体をぶつけた。
鈍い音が響く。
そして、その場に崩れ落ちると、美波は顔を歪め、涙を浮かべ始めた。
騒ぎを聞きつけ、洋介が慌ただしく駆けつけてきた。
そこで彼が目にしたのは、額を赤く腫らし、涙に濡れた美波が床に倒れ込んでいる姿だった。
そのそばには、渚が立っている。ひどく冷めた目で、ただ美波を見下ろしていた。
洋介は駆け寄るなり美波を抱き起こし、庇うように腕の中へ引き寄せた。そして鋭い視線を、渚へ向ける。
「お前が突き飛ばしたのか?」
渚が事情を説明するより早く、美波が泣き出した。
「洋介、頭が、すごく痛いの……渚さん、私のことが……嫌いみたい……」
怪我をした美波を目にして、洋介の顔が苦痛に歪んだ。
彼は美波を抱き上げると、外へ向かう。
渚も、この場を離れようとした。
しかしその瞬間、洋介が振り向きざまに、渚を突き飛ばした。
渚が立っていた場所のすぐ後ろにはちょうど階段があった。足を踏み外した身体が大きく傾き、そのまま階段を転がり落ちていく。
視界が激しく揺れた。世界がぐるぐると回り、身体中を打ちつけるたび、全身の骨がばらばらになってしまったような痛みが走る。
ようやく止まったときには、渚はしばらく起き上がることすらできなかった。
――痛い。
恐る恐る身体を起こし、床に手をつく。その手のひらに、ぬるりとしたものが触れた。
渚は息を呑んだ。
手が――血に染まっていた。
その瞬間、頭に浮かんだのは、お腹の中にいる赤ちゃんだった。
渚は震える声を絞り出す。「洋介……救急車を呼んで……!」
階段の上で、洋介は冷たく渚を見下ろした。「美波に手を出したんだ。少しくらい痛い目を見ろ」
それだけ言うと、洋介は美波を抱いたまま背を向けた。
その背中を見失った瞬間、渚の胸が張り裂けそうになった。
自分がどれほど傷ついてもいい。けれど――
お腹の子だけは守らないと。
床に広がる血が、次第に増えていく。目に焼きつく鮮やかな赤が、渚の恐怖をさらに煽った。
絶望が、押し寄せる波のように渚を飲み込んでいく。彼女は震える手で、ポケットからスマホを取り出す。何度も指を滑らせながら、ようやく救急車を呼ぶ。
住所を伝えるだけで限界がきて、彼女は意識を手放した。
……
長い、長い闇の中で――渚は夢を見ていた。
夢の中には、拓海がいた。あの頃と少しも変わらない姿で、いつものように渚のそばにいてくれた。
優しくて、穏やかで。
渚のお腹をそっと撫でながら、拓海は愛しそうに微笑んでいる。「渚のお腹の赤ちゃん、男の子かな。それとも女の子かな?
まぁ、男の子でも女の子でも、僕は大好きだよ」
そして、少しだけ楽しそうに首を傾げる。
「生まれてきたら、渚に似るかな。それとも俺に似るかな?渚に似るのがいいな。渚が世界で一番可愛いから」
陽の光を浴びた拓海の顔は、驚くほど鮮明だった。まるで、一度も渚のもとから離れたことなどなかったかのように。
渚は震える手を伸ばした。もう一度だけ、その頬に触れたい――
けれど、指先が触れたのは、冷たい空気だけだった。
次の瞬間、渚は目を開けた。白い天井が、ぼんやりと視界に映る。
ここは――病院だった。
身体中に痛みが残っている。怪我をした箇所にはすでに包帯が巻かれ、ちょうど医師がその交換をしているところだった。
「目が覚めましたか?」
渚が頷くと、医師はほっとしたように息を吐いた。けれど、すぐにその表情を曇らせる。
「高い階段から落ちたと聞きましたけど、あなた、妊婦さんでしょう?これから足元には十分に気をつけないと。
幸い、赤ちゃんは無事です。旦那さんに連絡して、手続きをしてもらってくださいね」
渚は、しばらく何も答えなかった。ただ、ぼんやりと天井を見つめていた。
そして、静かに口を開いた。
「……夫はいません。私が愛する人は……もう、死んでいます」
――その直後。
バンッ、と乱暴に病室のドアが開いた。そこには、顔を険しくした洋介が立っている。
「……誰が死んだって?」