愛を刃に変えて、もう君を想わない第1話
第1話は約2,667文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
【夫に隠し子がいたら、あなたは許せますか?】
その投稿を見つけたのは、ちょうど飛行機を降りたばかりのときだった。海外での仕事を予定より早く切り上げ、私は家へ帰るところだった。
なんとなくコメント欄を開き、自分のことを書き込んだ。
【私は再婚です。前の夫に三階から突き落とされたとき、今の夫が下で私を受け止めてくれました】
【そのせいで夫は背骨にひびが入り、19日間もICUにいました】
【それでも退院後、足を引きずりながら私の前にひざまずいて、「命を半分懸けて守った人だから、残りの半分も全部、君を愛するために使いたい」と言ってくれたんです】
【でも結婚して2年目、夫のスマホに見知らぬグループチャットがあるのを見つけました。メンバーは夫と一人の女、それから夫を「パパ」と呼ぶ男の子だけでした】
夫は泣きながら私にすがりつき、ひざまずいて謝った。子どもは私との結婚前にできた子だと。
今愛しているのは私だけだと。
家も車も貯金もすべて私に渡した。そして私の目の前で、その女の連絡先を全部削除した。
「今日から毎日、どこにいるか動画を送る。365日、一日だって欠かさない」
それから今日で3年目。夫は毎日、朝昼晩の三回、必ず動画を送ってきた。一度たりとも欠かしたことはなかった。
コメント欄には、【つらいことを乗り越えて、やっと幸せになれたんですね】【そんなに愛してくれる旦那さんなら、きっと大丈夫】そんな言葉が次々と並んだ。
私は小さく笑ってスマホを閉じると、キャリーケースを引いて自宅の前までやって来た。
玄関の鍵は開いていた。
靴を脱ごうとしてふと足元を見ると、玄関には大人用のスリッパが二足、その隣に子ども用の小さなスリッパが一足並んでいた。
リビングを覗くと、大きなお腹を抱えた女が、六歳くらいの男の子と一緒に積み木で遊んでいた。
物音に気づいた女は、こちらを振り返りもせず、そのままごく自然な口調で言った。
「あなた、遅かったわね。私もこの子もお腹ぺこぺこ。お肉、ちゃんと買ってきた?」
* * *
キャリーケースの車輪がフローリングを転がり、静かな部屋に音が響いた。
女が振り返った瞬間、視線がぶつかった。
女が着ていたのは、私が一番気に入っていたシルクのナイトウェアだった。
結婚一周年のとき、夫の石井拓海(いしい たくみ)がわざわざヨーロッパまで足を運び、私のためだけに仕立ててくれたものだ。裾には、私、高橋美雨(たかはし みう)のイニシャルまで刺繍されている。
そのナイトウェアが今、別の女の大きく膨らんだお腹を包んでいた。
カーペットに座っていた六歳の男の子は、大人たちの間に漂う異様な空気など気にも留めていない。緑色の腕輪を手にして、目の前の木製の積み木に何度も叩きつけていた。
カンッ、と乾いた音が響く。目が釘付けになった。息が止まる。
それは、お母さんの形見だ。亡くなった母が私に遺してくれた翡翠の腕輪。
傷つけるのが怖くて身につけることさえできず、ずっと寝室の金庫に大切にしまっていたものだった。
「やめて!」
私は駆け寄り、男の子の手首をつかんで腕輪を取り上げた。表面には、すでに白い傷が一本ついている。
男の子は突然おもちゃを奪われきょとんとした。次の瞬間、思いきり私の手首に噛みついた。
小さな歯が皮膚に食い込み、血がにじむ。痛みに耐えきれず、反射的に手を振り払った。
男の子は尻もちをつくようにカーペットへ倒れ、その途端、火がついたように泣き出した。
「何するの!」
女が悲鳴を上げる。そしてそのまま後ろへ倒れ込み、お腹を押さえて苦しそうに顔を歪めた。
「痛っ……お腹が……!なんで子どもに手を出すの!」
そのとき玄関のドアが開いた。
拓海が肉や野菜の入った買い物袋を提げて立っていた。額には汗が浮かんでいる。
部屋の中を見た瞬間、それまで浮かんでいた笑みが凍りついた。驚愕、そして、明らかな動揺。
私の手首からは、まだ血が滴っていた。震えながら拓海を見る。部屋にいたのは三年前、もう二度と連絡を取らないと、拓海が約束したはずの女だった。
拓海の手から買い物袋が落ちた。バサッと鈍い音がする。肉のパックから漏れた赤い汁が床に広がっていった。
かつて私を助けるために背骨を痛め、今も足を引きずって歩く男。
その男は今、私の横を素通りした。そして床に倒れている女のもとへ駆け寄り、真っ先にその大きなお腹を両手でかばった。
女を起こそうと立ち上がった拍子に、拓海の腕が私の肩にぶつかる。いや、ぶつかったなんてものじゃない。私は強く後ろへ押しのけられた。
腰が玄関の靴箱に激突する。鋭い痛みが走った。
「子ども相手に何やってるんだよ!」
拓海の怒鳴り声がリビングに響き渡った。女は拓海の胸にもたれ、泣きながら訴える。
「拓海……私、ちょっと荷物を取りにこの子を連れてきただけなの。そしたら奥さんが帰ってきた途端、いきなり……。お腹、すごく痛い……」
男の子も拓海の脚にしがみついた。
「パパ!あの女の人が僕のおもちゃ取った!」
私は靴箱にもたれたまま、その光景を見ていた。もう腰の痛みすら感じなかった。手首から流れた血が、指先を伝って一滴ずつ床へ落ちていく。
この家で、私だけがよそ者だった。
拓海がこちらを振り返った。私の血まみれの手首を見て、顔色が変わる。慌てて女から手を離し、足を引きずりながら私のもとへ近づいてきた。
「美雨……」
肉の赤い汁で汚れた手を伸ばし、私を抱きしめようとする。目には涙が浮かび、声まで震えていた。
「美雨、聞いてくれ。今日はあいつの家のお手伝いさんが休みで、仕方なく二人を半日だけここに連れてきただけなんだ……」
「触らないで!」
私は身を引き、その手を避けた。
母が遺してくれた翡翠の腕輪を、強く握りしめる。硬い石が手のひらに食い込み、骨まで痛むほどだった。
三年前、私は拓海の裏切りをすべて知ったつもりでいた。
けれど違った。あれは始まりにすぎなかったのだ。
拓海の手が宙で止まる。私の目を見つめたまま、突然その場に膝をついた。
三年前と同じように、私の脚にすがりつき、膝に顔を押しつける。肩が大きく震えていた。
「美雨、ごめん。本当に俺が悪かった。腹の子だって、ただの事故なんだ。あいつのことなんて愛してない。俺が愛してるのは美雨だけだ……」
背後から、女のすすり泣く声が聞こえた。
私は腰をかがめ、脚に絡みつく拓海の指を一本ずつ引き剥がした。そしてゆっくりと言った。
「拓海、あの人が着てるの、私のナイトウェアだし、履いてるのも、私のスリッパなのよ。半日だけ連れてきた、なんて本気で私が信じると思ってるの?」