愛を刃に変えて、もう君を想わない第2話
第2話は約1,751文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
拓海の表情が一瞬だけ固まった。
私が体勢を立て直すより早く、拓海は立ち上がった。抵抗する私を無視して、強引に抱き上げる。
馴染みのある匂いに、生臭い血のようなにおいが混じっていた。私は必死に拓海の胸を押した。
「下ろして!触らないで。気持ち悪い!」
「暴れるな。先に傷の手当てをする」
私が胸を叩いても、拓海はまるで気にしなかった。足を引きずりながら私を抱えているのに、その腕だけは逃がすまいと強く私を抱き締めている。
拓海は、すでにあの女に占領されていた主寝室には向かわなかった。私をそのまま客室へ運ぶと、後ろ手にドアを閉めた。
救急箱を開く。
消毒液を含ませた綿棒が手首の傷に触れた。染みる痛みに思わず肩がすくむ。
すると拓海は突然、私の手首をつかんだ。そのまま背を向け、シャツを乱暴にまくり上げる。背骨に沿って長く残る傷跡が目の前に現れた。
「美雨。触ってみろ」
拓海は私の手をつかみ、無理やりその傷跡へ押し当てた。
その瞬間、5年前に三階から落ちたときの浮遊感が一気によみがえった。
拓海が振り返る。真っ赤になった目で私を見つめていた。
「俺は命を半分削って、お前を助けたんだ。今だって、この身体には美雨を守るために壊した骨の跡が残ってる。そんな俺が、美雨を愛してないわけないだろ?
向こうに二人目ができただけなんだ。自分の子どもを路頭に迷わせるわけにはいかないだろ。俺があいつに渡してるのは金だけだ。愛情なんかない。それで十分じゃないか。どうして少しくらい受け入れてくれないんだよ」
赤く充血した拓海の目を見ながら、私はあまりの身勝手さに言葉を失った。
「受け入れる……?」
吐き気がした。私はポケットからスマホを取り出した。「夫の毎日の報告」と名前をつけたフォルダを開き、一番新しい動画を再生する。
画面の中では、拓海が清潔なバスローブを着ていた。背後に映っているのは七十万円もしたヨーロッパ製のベッド。
「美雨、今日もちゃんと薬飲んだよ。会いたいな」
私はスマホの画面を拓海へ向けた。動画の撮影時刻は昨夜の十時。
「拓海。毎日、私のベッドに座って、会いたいって動画を撮って、そのあとこの家であの人を抱いて寝てたんでしょ?」
私は拓海の目をまっすぐ見た。声は自分でも驚くほど静かだった。
「動画は全部で2190本。私が買った家の中で、3年間ずっと、愛妻家のふりをしてたんだね」
拓海の顔から血の気が引いた。唇を震わせながら、私のスマホを奪おうと手を伸ばす。
「違う、美雨。あれはただ、あいつを落ち着かせるためで……」
そのとき、ドアの向こうからノックの音がした。続いて女の苦しそうな声が聞こえる。
「拓海……本当にお腹が痛いの……血も出てるみたい……お願い、ちょっと来て……」
スマホへ伸ばしかけていた拓海の手が止まった。
背中が強張る。視線が私とドアの間を何度も行き来した。
しばらくして拓海は手を下ろした。
「美雨。薬はここに置いておくから、少し落ち着いてくれ」
そう言うと腰をかがめ、私の額にキスを落とした。
そして立ち上がり、足早にドアへ向かう。拓海はドアが開くとすぐに閉めた。
外から拓海が女の容体を心配する声が聞こえる。女の泣き声。それから男の子が甘えた声で「パパ、抱っこ」とせがむ声。
カチャ。
小さな音が響いて私は顔を上げた。拓海が外から客室の鍵をかけたのだ。
ドア越しに声が聞こえる。
「いい子で待っててくれ。あいつのことを片づけたら、俺たち、またやり直そう」
その後、足音と騒がしい声は次第に遠ざかっていった。やがて玄関のドアが閉まる。
家の中は完全に静まり返った。
私は手首に残った歯形を見た。傷口からまだ血がにじんでいる。
ゆっくりとスマホを取り出し、一人の男に電話をかけた。
「先輩」
電話がつながる。向こうから聞こえてきたのは、落ち着いた静かな息遣いだった。
「美雨」
西村颯真(にしむら そうま)の声は、大学時代と変わらない。
聞いているだけで、不思議と気持ちが落ち着く声だった。
「予定より早く帰ってきたんだな?」
「うん」
私は客室の隅へ目を向けた。そこには、いつの間にか追いやられた私物が、きれいにまとめて積まれていた。
「先輩、調べてほしいことがあるの。前に拓海が私に名義を移した不動産と、それから預金口座、今どうなってるのか、正確な資産状況を全部調べて」