散りゆく愛の果てに第1話
第1話は約2,975文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
高度一万メートルを越えた空で突如として乱気流に巻き込まれ、機長・高橋隆司(たかはし りゅうじ)は危うい状況のさなか、パートナーである白石美月(しらいし みつき)へと告白した。
二人が互いの想いを打ち明け合う一方で、隆司の妻・萩原凛(はぎわら りん)が同じ機内にいることには、誰ひとり気づいていなかった。
愛情のこもった隆司の声は、凛の耳に鋭く突き刺さる。
「結婚しよう、美月」
ちょうどそのとき、凛の前に座っていた息子・高橋翔太(たかはし しょうた)も、露骨な嫌悪を滲ませながら口を開いた。
「あんなママなんて大嫌い!美月さんにママになってほしい」
凛の心は深い絶望に沈み、悲しみは絶え間なく流れ続けた。飛行機が無事に着陸すると、彼女は震える指でアシスタントに電話をかける。
「仮死薬の被験者になるわ。夫も息子も、もういらない」
そして凛は、結婚記念日に死ぬことを静かに決めた。
すべての準備を終えたあと、凛は淡々と仮死薬を服用した。
次に目を覚ますときには、新しい人生が始まっているはず。
その後、隆司に届いた妻の死の知らせは、彼を狂乱の涙に沈ませた。
* * *
高度一万メートルを越えた空で突如として乱気流に巻き込まれ、機長・高橋隆司(たかはし りゅうじ)は危うい状況のさなか、パートナーである白石美月(しらいし みつき)へと告白した。
二人が互いの想いを打ち明け合う一方で、隆司の妻・萩原凛(はぎわら りん)が同じ機内にいることには、誰ひとり気づいていなかった。
愛情のこもった隆司の声は、凛の耳に鋭く突き刺さる。
「結婚しよう、美月」
ちょうどそのとき、凛の前に座っていた息子・高橋翔太(たかはし しょうた)も、露骨な嫌悪を滲ませながら口を開いた。
「あんなママなんて大嫌い!美月さんにママになってほしい」
凛の心は深い絶望に沈み、悲しみは絶え間なく流れ続けた。飛行機が無事に着陸すると、彼女は震える指でアシスタントに電話をかける。
「仮死薬の被験者になるわ。夫も息子も、もういらない」
そして凛は、結婚記念日に死ぬことを静かに決めた……
*
「社長、おめでとうございます。仮死薬の研究開発がついに成功しました。ただ……なかなか被験者が見つからなくて」
アシスタントは困惑を隠せない表情を浮かべたが、凛の瞳には揺るぎない決意が宿っていた。
「二、三日したら会社に戻るから、私がその被験者になる」
ソファにもたれかかった凛の目は、涙で曇りかけていた。
電話越しに、アシスタントの驚愕した声が再び響く。
「来月は坊ちゃまの卒業式ですが……本当にそうされるおつもりですか?それに、高橋機長が結婚記念日にサプライズを用意している、と」
サプライズ?
凛は苦々しく自嘲めいた笑みを漏らした。ショックの間違いではないだろうか。
三日前、彼女は大きなプロジェクトを成功させたばかりで、夫の隆司と息子の翔太と久しぶりにゆっくり羽を伸ばしたいと願っていたのだ。
こっそりと隆司が操縦する便の航空券を買い、手にはふたりへのプレゼントを抱えていた。
飛行機が航路の半ばに差し掛かったころ、突然、強烈な乱気流が発生した。
緊迫した空気が機内を満たすなか、機内放送から隆司の声が響く。
「当便機長の高橋隆司です。必ず皆様を無事に目的地へお送りします」
張り詰めていた凛の胸は、次第に落ち着きを取り戻していった。彼なら必ずやり遂げると信じていた。
だが、放送は切れず、再び隆司の声が重く響いた。
「もし俺たちが今回生きて帰れたら……結婚しよう、美月」
凛は目を見開き、胸の奥底から激しい怒りが込み上げた。
白石美月――この便の副操縦士であり、隆司にとって完璧なパートナーだ。
二人は共に千回以上のフライトをこなし、隆司が彼女と過ごす時間は、本妻である自分より圧倒的に長かった。
乗客たちは依然として危険の最中にあったが、図太い学生が茶化すように声を上げた。
「機長さんがああ言ってるんだから、俺たち絶対無事に帰れるよな」
「美月って人、マジで羨ましい。高度一万メートルを越えた空であんなプロポーズされるなんて、死んでも悔いないわ」
凛は両手で固くシートベルトを握りしめ、操縦室の方をじっと見つめた。
しばらくして、飛行機はようやく安定した飛行を取り戻した。
耳に入るのは、九死に一生を得た喜びと祝福の声ばかり。
凛の涙は堰を切り、視界の端に息子・翔太の姿が揺らいで映った。
彼の隣には、美月の母・白石加奈子(しらいし かなこ)が座っていた。二人は親しげに、着陸後に美月の誕生日をどう祝うか話し込んでいる。
「おばあちゃん、美月さんはもうすぐ僕のママになるの?」
加奈子は笑みを浮かべ、翔太の髪を優しく撫でた。
「翔太ちゃん、本当に美月ちゃんにママになってほしいの?じゃあ、自分のママはどうするの?」
翔太は激しく首を振り、全身で拒絶の意を示した。
そして凛からもらったお守りを乱暴に取り出し、力任せに引き裂いて粉々にする。
「あんなママなんて大嫌い!僕の勉強のことばっかり口出ししてくるし……やっぱり美月さんの方が優しい。僕、美月さんが好き。パパも美月さんが大好きなんだ」
そう言うと、彼は腕に抱えた美月へのプレゼントへ目を落とし、嬉しそうに微笑んだ。
凛は静かに視線を戻し、胸の奥が深い苦味で満たされていくのを感じていた。
翔太を妊娠した年、彼女は安産を願って病院を駆け回り、昼夜を問わず薬を飲み続けた。
体型は崩れ、難産の末に大量出血し、病院で死にかけたことさえある。
命がけで産んだ子供が、今では自分の母親にふさわしくないと公言しているのだ。
一筋の涙が頬をつたって落ち、やがて再び目を開いたとき、凛の瞳には固い決意が宿っていた。
飛行機が無事に着陸すると、空港は取材の準備をする記者たちでごった返していた。
凛は人混みに押しやられ、隆司たちは彼女の姿にまったく気づかなかった。
「高橋機長は卓越した技術で全乗客を救われましたが、今のお気持ちは?」
隆司は薄い笑みを浮かべ、隣の美月を皆の前へ引っ張り出した。
隠すそぶりすら見せず、宝物を見せびらかすかのような眼差しで説明する。
「すべて美月のおかげです。彼女という幸運の女神が毎回のフライトで私を支え、細やかな問題点を分析してくれるからこそ、今回もこれほどスムーズに運んだのです」
照れ隠しに、美月はぶりっ子めいた表情を浮かべつつ、専門用語を交えて説明を付け足した。
拍手は耳をつんざくほどで、人混みはすぐに四方へ散っていった。
インタビューが終わったあと、隆司はようやく凛の寂しげな姿に気づいた。
彼はまず凛が空港に来ていることに驚き、続いて、なぜか平然と落ち着いた表情に戻る。
「凛、わざわざ迎えに来てくれたのか?」
凛はまるで他人を見るような冷たい視線で彼を見つめ、その眼差しには氷のような温度しかなかった。
隆司はそれに気づかないふりをするかのようだ。しかし急に、焦りをにじませた顔を見せた。
携帯の着信音がひっきりなしに鳴り、彼は落ち着かない様子で腕時計を何度も見た。
凛は深く息を吸い込み、ゆっくりと口を開く。
「他に用事があるの?」
隆司が返事をするより早く、整えられた制服姿の美月が愛嬌たっぷりに彼の隣へ歩み寄った。
「隆司さん、今夜の打ち上げパーティー、あなたが主役よ。欠席なんて許さないんだから。ごめんね、凛さん、今夜は旦那さんを私が預かりますから……ね?」