散りゆく愛の果てに第2話
第2話は約2,351文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
美月は柔らかく微笑んでいたが、隆司の目には、それが気の利いた物分かりのよい態度に映っていた。
しかし凛にとって、その笑みは挑発以外の何物でもなかった。
背後から翔太の声が聞こえた。凛の姿を認めた瞬間、翔太の顔から笑みはすっと消え失せる。
「どうしてここにいるの?仕事が終わるの、すごく遅くなるって言ってたじゃないか」
凛は飛行機での翔太の言葉を思い出し、思わず両手を固く握りしめた。胸の内では感情が渦を巻き、行き場を失っていた。
息子が自分の登場を歓迎せず、むしろ彼らと美月の時間を邪魔されたと感じていることが、痛いほど伝わってきた。
短い沈黙ののち、凛は冷え切った声で言った。
「出張があるの。たまたま空港にいただけ。あなたたちは、ご自由にどうぞ」
そう告げると、凛は未練の欠片も見せず、くるりと背を向けて立ち去った。
今夜が彼らの打ち上げであろうと、美月の誕生日祝いであろうと、もはや凛にはどうでもよかった。
いずれにせよ、もうすぐ自分とは無縁になる世界なのだから。
凛は一人で帰宅し、前もって用意していたプレゼントをすべてゴミ箱へと放り込んだ。
ぼんやりとした意識の中、視線はリビングに飾られた家族写真に向けられる。
仲むつまじかった家族は、いつからバラバラになってしまったのだろう。
それとも、自分だけがずっと知らないまま取り残されていただけなのだろうか。
彼女はソファに崩れ落ちるように座り込み、頭の中では飛行機内での光景が何度も蘇った。
アシスタントからの電話を切ったあと、凛は浴室で簡単にシャワーを浴び、寝室へ戻ったものの、一睡もできないまま夜が明けた。
空が白みはじめた頃、隆司が酒の匂いをぷんと漂わせながら翔太を連れて帰ってくる。
彼は酔った勢いのまま凛の隣へ倒れ込み、その首筋にははっきりとキスマークがついていた。
「凛、すごく気分が悪いんだ……」
凛は胸の奥で込み上げる吐き気を必死に押し殺し、彼から顔を背けた。
その仕草に気づいた隆司は身を起こし、かすれた声で尋ねた。
「どうしたんだ?会社で何かあったのか?」
会社の話題となると、どれほど酔っていても彼は意識を取り戻す。
隆司はもともと金遣いが荒く、おそらくここ数年の給料の大半は美月のもとへ流れていたのだろう。
凛の会社がプロジェクトを成功させるたび、隆司は当然のようにボーナスを要求してきた。
凛は体をこわばらせながらも、探るようにゆっくりと口を開いた。
「会社に問題なんてないわ。それより……今日、あなた、危ない目に遭いそうになったって聞いたけど?」
隆司は一瞬表情を強張らせたが、すぐに凛を抱きしめ、きっぱりと言い切った。
「そうなんだ。一番怖かったのは、もし俺に何かあったら……お前と翔太はどうなるんだろうってことさ」
その言葉には真実と嘘が半分ずつ混じり、凛をどう扱えば思い通りに動かせるかを、彼は心得ていた。
凛は微笑みを浮かべたものの、その両手は止まらない震えを隠すことができなかった。
「私と翔太のこと?生死の境で私たちを気にかけてくれるなんて、ありがたいことね」
凛は歯を食いしばり、一言一句を搾り出すように吐き出した。隆司は、凛がただ拗ねているのだと勘違いしたらしい。
彼は力強く凛を抱き寄せ、顔を寄せて眉間にわずかな皺を刻む。
「凛。俺がこの人生でいちばん愛してるのはお前だけだ。家族三人、これからも無事で幸せに暮らしていけるさ」
凛はふっと微笑のような息を漏らし、にっこりと問いかけた。
「じゃあ、もし私に何かあったら……あなた、別の女と結婚するの?」
その言葉に隆司は一気に酔いが覚め、瞳には鋭さと固い決意が宿る。
「凛、誓うよ。俺の妻はお前一人だ。誰かに何か言われたのか?俺たちは幼馴染で一緒に育ってきたんだ。この絆は、誰にも壊せない」
凛は深く曇った眼差しでしばらく彼を見つめ、それから静かに視線を逸らした。
隆司は彼女の表情が変わらないのを見ると、ついに眠気に負け、ベッドに倒れ込むようにして深い眠りへ落ちていった。
凛はしばらく隆司を見つめ、そのポケットからそっとある物を取り出す。
こみ上げる吐き気を必死に押し殺し、その三角形のパンツを、凛は震える指で再びポケットに押し戻した。しわくちゃになったスーツには、ねっとりとした感触がまだ残っていた。
凛は口を押さえて寝室を飛び出し、ドアにもたれかかって大きく息をつく。
爪が掌に食い込み、滲んだ血が指先を伝って落ちていった。
凛は翔太の部屋へと歩み、扉の隙間から息子の寝顔を覗き込む。
胸を鷲掴みにされたような痛みに襲われ、凛はソファで身体を丸めたまま、一晩中眠れずにいた。
翌朝早く、凛は何事もなかったかのように落ち着いた手つきで朝食を整えた。
翔太は意外そうにそれを見ていたが、やがて何か思いついたように、おずおずと口を開く。
「今日は日曜日だよ。友達と遠足の約束してて……パパが送ってくれればいいよ。ママは……どうせ、忙しいでしょ」
隆司はその言い方に眉をひそめ、「お母さんに対してその口の利き方はなんだ」と低く叱った。
翔太はわずかに俯き、箸でご飯をかき混ぜながら、不機嫌を全身でまとっていた。
凛は目玉焼きをひとつ翔太の茶碗に入れ、淡々と言う。
「いいのよ。お父さんに送ってもらいなさい。それに、これからはあなたの成績にも口出ししないわ。翔太も大きくなって、善悪の区別くらいつくでしょう。これ以上押しつけても、私が悪者になるだけだもの」
翔太ははっと顔を上げ、まるで凛の中身が別人にすり替わっているかのように、怪訝な目で母を見つめた。
そのとき、翔太のスマートウォッチが突然鳴り響き、けたたましい着信音が三人の視線をさらう。
翔太は背を向けてこっそり電話に出たが、美月の声ははっきりと聞こえてきた。
「翔太くん、もう準備できたわよ。いつ出発する?」