来ない人を、五年以上待ち続けた第1話
第1話は約2,553文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
私、榊原詩織(さかきばら しおり)と彼氏の井上優斗(いのうえ ゆうと)がウェディングドレスの試着に行ったその日、彼の女性アシスタントの前田有希(まえだ ゆうき)が、私が三か月も待ち続けたオーダーメイドのウェディングドレスを壊した。
すると彼はそのアシスタントの前にすっと立ちはだかり、淡々とした口調で言った。
「このドレスはもともと細工が多くて重いんだ。有希が持ちきれなかったのも無理はない。そんなに責め立てるなよ」
私は信じられない思いで彼を見つめた。
「優斗、これは私が三年間も楽しみにしてきた結婚式なの!このドレスをどれだけ待ったと思ってるの!」
優斗の顔に、かすかな苛立ちが浮かんだ。
「また作り直せばいいだろ。これじゃなきゃ駄目ってわけでもないんだから。
新しいドレスが仕上がったら、盛大な結婚式を挙げるって約束する」
私は口を開いた。
けれど、声は何ひとつ出なかった。
ただ、感覚のないままこくりと頷いた。
ウェディングドレスは、べつにこの一着でなければならないわけじゃない。
同じように、新郎だって、優斗でなければならないわけじゃない。
* * *
私、榊原詩織(さかきばら しおり)と彼氏の井上優斗(いのうえ ゆうと)がウェディングドレスの試着に行ったその日、彼の女性アシスタントの前田有希(まえだ ゆうき)が、私が三か月も待ち続けたオーダーメイドのウェディングドレスを壊した。
すると彼はそのアシスタントの前にすっと立ちはだかり、淡々とした口調で言った。
「このドレスはもともと細工が多くて重いんだ。有希が持ちきれなかったのも無理はない。そんなに責め立てるなよ」
私は信じられない思いで彼を見つめた。
「優斗、これは私が三年間も楽しみにしてきた結婚式なの!このドレスをどれだけ待ったと思ってるの!」
優斗の顔に、かすかな苛立ちが浮かんだ。
「また作り直せばいいだろ。これじゃなきゃ駄目ってわけでもないんだから。
新しいドレスが仕上がったら、盛大な結婚式を挙げるって約束する」
私は口を開いた。
けれど、声は何ひとつ出なかった。
ただ、感覚のないままこくりと頷いた。
ウェディングドレスは、べつにこの一着でなければならないわけじゃない。
同じように、新郎だって、優斗でなければならないわけじゃない。
親友の加藤凛(かとう りん)は私が頷いたのを見ると、信じられないという目をした。
「詩織ちゃん、あの女の嘘にだまされないで!ほら、ここ、カッターで切った跡がこんなにはっきりしてる。どう見たってわざと――」
言い終える前に、店員が奥から出てきた。
凛は店員の手にあるブライズメイドドレスを見て、目を赤くした。
「ウェディングドレスがあんなことになってるのに、私、何をブライズメイドドレスなんて試着すればいいのよ……」
私はなだめるように彼女の肩を軽く叩いた。
「大丈夫、着てきて。結婚式に遅れは出ないから」
親友が離れると、そばにいた有希がすぐに言葉を継いだ。
「でも、ウェディングドレスをもう一着オーダーし直すとなると、少なくとも一か月はかかりますよね。たしか社長と奥さまの結婚式って、来週でしたよね?
全部、私のせいです。もっと気をつけていればよかったです……」
優斗はふっと笑って、淡々と言った。
「大したことじゃない。そんなに自分を責めるな」
大したことじゃない。
そんなに自分を責めるな。
私はその二つの言葉を心の中で噛みしめながら、顔を上げて優斗を見た。
彼は私から少し離れた場所に立っていた。その隣には有希がいた。
話すあいだ、彼の視線は終始有希に向けられていて、目元にはかすかな笑みさえ浮かんでいた。
そして、原形もわからないほど切り裂かれたあのウェディングドレスには、彼はこの店に入ってから一度も目を向けようとしなかった。
凛が試着を終えて出てきた。
私は目の前に立つ彼女を見て、今日初めての笑みを浮かべた。
「凛ちゃん、そのドレス、すごく似合ってる。
私の結婚式のときは、私が贈ったあのヘッドドレスを絶対に合わせてね」
凛はふんと鼻を鳴らし、ちらりと優斗と有希のほうを見やったが、何も言わなかった。
店員がまた何着か新しいウェディングドレスを持ってきて、試着を勧めた。優斗は近づいてきて、いつもの癖のように私のバッグを持とうとした。
私はその手を避け、バッグをそのまま床に置いた。
優斗は一瞬、面食らったように固まった。
私がカーテンを引いて間もなく、外から彼の声がした。
「正直、最初に選んでたあの一着は、君にはあまり似合ってなかった。
あれは体のラインの欠点が目立ってしまう。君にはマーメイドラインのほうが合ってる。
だから壊れたなら壊れたでいいだろ。大したことじゃない、そうだろ?」
私が答えないままでいると、優斗はカーテンをめくって中に入ってきた。
彼は私の背中のファスナーを上げながら、ひどくかすかなため息とともに言った。
「ただのドレス一着だ。
もっと大人になれよ。そんなに根に持つな」
もっと大人になれよ。
またその言葉だった。
有希が婚約パーティーの招待客リストを間違えて書いたときも。
婚約パーティーで酔いつぶれて、優斗にしがみついて離れなかったときも。
勝手に病院へ母の見舞いに行き、母のアレルギーの原因になるマンゴーを持っていったときも。
優斗はいつだってあの冷めた口調で、ひどくいい加減なその一言を口にした。
「有希はまだ新人なんだ。いろいろ不慣れなんだから、君はもっと大人になれよ」
私は抱きしめようとして近づいてくる優斗を押しのけ、そっと息を吐いた。
「出ていってくれる?」
優斗は黙って数秒、私を見つめた。
そして最後には頷き、後ろへ下がって出ていった。
「少し頭を冷やせ。
有希を送ってくるよ。このあたりは会社から遠いし、一人で帰るのは不便だろうから」
優斗が去ったあと、私は試着室のソファに崩れるように座り込んだ。ビスチェ部分の締めつけがきつくて、息がうまくできなかった。
そのとき、凛の声がした。
「優斗と、いったいどうなってるの?この結婚式、あなたたち、一年もかけて準備してきたんでしょ。
彼、いったい何を考えてるの?」
私は目を伏せ、身にまとった硬い生地を指先でなぞりながら、意識を一か月前の病院へと遡らせた。
あのとき、医者は母の危篤を告げた。母はベッドに横たわり、目には涙をいっぱいにためていた。