来ない人を、五年以上待ち続けた第2話
第2話は約1,964文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
「詩織のことだけが、お母さんはどうしても気がかりなの。
お母さんがいなくなったあと、あなたが幸せになれないんじゃないかって……」
今にも倒れそうな私を、優斗が前に出て支えた。そして、母に向かって揺るぎない口調で言った。
「おばさん、誓います。これからは俺が、おばさんの代わりに詩織をちゃんと守っていきます」
彼はすぐに皆へ連絡を入れ、結婚式の準備を前倒しで進めるよう手配した。自ら付き添って進行を確認するために、しばらく休みまで取った。
あのとき優斗は私の頬をつまみ、目の奥いっぱいに頼もしさと優しさをたたえていた。
「おばさんが生きているうちに、君が結婚する姿をその目で見られて、結婚式にも出られたら、少しは安心できるはずだ。
おばさんに、君が幸せだってちゃんと見てもらう。詩織、約束する」
彼のキスがそっと私の唇の端に触れた。けれど記憶が遠のくにつれて、その感触は少しずつ冷たく、苦いものに変わっていった。
優斗が何を考えているのか、私にはわからなかった。
でも今は、理解しようとする余裕すらなかった。
店員とデザインの打ち合わせを済ませ、私と凛はタクシーで店をあとにした。
部屋の扉を開けて、真っ先に目に飛び込んできたのは、あの大きなウェディングフォトだった。
ウェディングフォトを撮った日も、有希が入社した初日だった。
二人は学生時代からの知り合いだったらしく、優斗が結婚すると聞くや大喜びで、ぜひ手伝いたいと言ってやって来た。
けれど写真を運んでいる最中に足をもつれさせ、危うくパネルを落として壊しかけた。
私は見ていて肝を冷やしたのに、優斗は何の反応も示さなかった。
ただ、有希のそばを通り過ぎるとき、ひと言だけ小さく尋ねた。
「足、ひねってないか?」
あの瞬間にはもう、私を結婚式まで踏ん張らせていたものは、きっとただ母を安心させたいという気持ちだけになっていたのかもしれない。
扉のほうで小さな電子音がした。指紋認証の解錠音だった。
背後から足音が近づいてきて、やがて私の隣で止まった。
優斗もそのウェディングフォトをしばらく見つめていたが、やがてふいに口を開いた。
「実を言うと、この写真にも粗はいろいろある。
でもあのときはおばさんの体調があまりよくなくて、急いで決めるしかなかったんだ」
私は何も答えず、静かにその先の言葉を待った。
ほどなくして、優斗の視線が私へ落ちた。
その口ぶりはどこまでも軽かった。
「有希の言うとおりだ。結婚式は、やっぱり遊びじゃない。
今日試したのも、見た感じどれも今ひとつだったし、やっぱり一着ちゃんとオーダーしよう。
ドレスが一か月後に仕上がったら、それから式の段取りを改めて詰めればいい」
一か月後では、母はもう間に合わない。
窓から吹き込んだ風のなか、私は自分でも驚くほど静かな声で言った。
「優斗、もう別れよう。
来週、私は結婚するから」
部屋の中に、短い静寂が落ちた。
優斗の顔つきがすっと険しくなる。
「詩織、ふざけるな。一週間じゃ無理がある。まだ片づいてないことが山ほどあるだろ」
「式場は押さえてあるし、進行の確認も済んでる」
私は彼に尋ねた。
「何が、まだ片づいてないの?」
優斗は眉をひそめた。適当にごまかすだけでは、もう私をどうにもできないと気づいたのだろう。
彼は開き直ったように言った。
「詩織、最近マリッジブルーがひどすぎるんじゃないか?
そこまでひどいなら、こっちでカウンセラーを手配する。君は――」
「来週末、三月九日」
私は彼の言葉を遮った。
「結婚式は予定どおりやる」
私はスマホを取り出し、画面に表示した招待状のデザインを見せた。
その瞬間、優斗はいきなりスマホをひったくり、床へ叩きつけた。
「いい加減にしろ!詩織!
この前、君が俺のプロポーズを受けたのは、お母さんのためなんだと思ってた。
でも今となっては、ただ焦って自分を嫁に行かせたいだけだったみたいだな!」
優斗は荒く息をつき、氷のような声で言い放った。
「言っとくがな、君はもう年なんだ。とにかく結婚したいんだろうが。
だからって、自分が結婚に飢えてるからって、その勢いで俺に無理やり結婚を迫るのは筋違いだ!」
優斗は乱暴に扉を開けて出ていった。けたたましい音に、部屋じゅうが震えた。
ちゃんと固定されていなかったガラス入りのウェディングフォトが壁から落ちた。
私の足元で、それは完全に砕け散った。
私はしゃがみ込み、優斗に叩き割られたスマホを拾い上げた。
すると一本のビデオ通話が入ってきた。蜘蛛の巣みたいに走ったひびを避けながら、私は通話ボタンを押した。
凛の声が聞こえてくる。
「もう聞いた。優斗、あなたが選んだウェディングドレスに不満で、作り直すとか言ってるんでしょ。これじゃ来週の結婚式なんて絶対無理じゃない。
でも安心して。おばさんにこの話を切り出しにくいなら、私が代わりに話してくるから」