来ない人を、五年以上待ち続けた第3話
第3話は約1,917文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のうち最後の章です。第4話は公式アプリで続きます。
そう言いながら、彼女は画面をとんとんと叩き、口角を上げるしぐさをしてみせた。
「もっと嬉しそうにしなよ。だって、これから一番好きな人のところに嫁ぐんだから。
親友として、あなたが幸せなら、私はもちろん全力で応援するよ!」
指先が、叩き割られたフォトフレームの破片で切れた。血が画面の上にじわりと広がっていく。
私はそれをゆっくり拭い、そっと口元を緩めた。
「お母さんには言わなくていいよ。結婚式は予定どおりやるから。
凛、私、自分でちゃんと幸せになる」
通話を切ると、一件のメッセージが届いた。
結婚式用に新郎の礼服を仕立てているブランドからだった。
優斗と連絡がつかないので、新郎はいつ試着に来るのかと尋ねてきていた。
私はキーボードを叩き、返信した。
【彼にはもう連絡しなくて大丈夫です。あとで新しいサイズをお送りします】
それを済ませると、私は自分の荷物をまとめ始めた。
翌日、私はスーツケースを引いて部屋を出た。
車が病院に着くと、私は気持ちを整え、無理に笑みを作って病室の扉を開けた。
「お母さん」
母はベッドに横たわっていたが、ぱっと目を輝かせた。
「あら、詩織ちゃんが来たのね」
母は私の両手をぎゅっと握りしめ、にこにこと笑った。
「結婚式の日、体の具合が悪くて行けなかったらどうしようって思ってたの。
でもこの数日で、先生が少し良くなってきたって言ってくれてね。
詩織ちゃん、お母さん、あなたがお嫁に行く姿をこの目で見られそうよ」
最後のひと言はとても小さくて、まるで自分に言い聞かせる嬉しい知らせのようだった。
私は込み上げるものをこらえながら、母の布団を整えた。
けれど次の瞬間、病室のドアが乱暴に開け放たれた。
有希が入口に立ち、母を指さして言った。
「おばさん、あなたがそんなことを言うからなんですよ。あなた、自分の娘さんが社長に無理やり結婚を迫ったって知ってます?」
頭の中で、ぶん、と鈍い音が鳴った気がした。私は反射的に立ち上がり、母の前に立ちはだかった。
「何をでたらめ言ってるの!」
有希は腕を組み、見下すように私を見た。
「違いますか、榊原さん?社長の気持ちも考えずに、勝手に結婚式の段取りも日程も決めたんでしょう。そんなの、無理やり結婚を迫ったのと同じじゃないですか!本当にやり方が汚いですよね!」
有希は得意げで挑発的な顔をしていた。その隣に立つ優斗は、ひと言も口を挟まなかった。
まるで有希の言葉を全面的に認めているようだった。
背後から、母の震える声が聞こえた。
「無理やり結婚を?それ、どういうことなの?」
有希は口をへの字に曲げた。
「おばさん、私が思うに、体が悪いならこれ以上子どもに迷惑をかけないほうがいいんじゃないですか。
見てくださいよ。あなたのせいで、どれだけ話がめちゃくちゃになってるか。
私なんて昨日の夜、社長をなだめるのに一晩かかったんですよ」
母の顔から、さっと血の気が引いた。
有希の言葉に含まれた意味を、母ははっきり悟ったのだ。
有希は冷ややかに笑った。
「でもまあ、榊原さんがこんなふうに結婚を迫るようなことをするのも、結局は親が親だからこそ――」
パシッ!
私は叩かれて顔をそむけた有希を冷たく見据え、低い声で言った。
「出ていって」
優斗は勢いよく有希を背後にかばい、その目を冷えきらせた。
「詩織、頭おかしいのか!
有希の言ってることは間違ってないだろ。君の母親、今だってぴんぴんしてるじゃないか。
母親の病気をだしにして俺をだまして、少しずつ逃げ道をふさいで、結婚に持ち込もうとしたんだろ。詩織、君も大したもんだな!」
私は彼を見て、もう言い争う気力すら完全に失った。
スマホを取り出し、そのまま警備員を呼ぼうとしたそのとき、背後で鈍い音がした。
私ははっとして振り返った。母が床に倒れていた。
「お母さん!」
母は涙をこぼし、歯を食いしばって叫んだ。
「あなたたち、出ていって!うちの娘をいじめるんじゃない!」
私は慌てて駆け寄り、母を抱き起こした。その体は激しく震えていた。
母は悲鳴のような声で優斗を問いただした。
「優斗、この女は誰なの!これが、あのときあなたが私に約束したことなの?詩織を守るって、そう言ったじゃない!
これが、あなたの立てた誓いなの!」
優斗は一瞬、言葉を失ったように固まった。
それから私を見つめ、長いこと黙り込んだ。
やがてためらいがちに口を開いた。
「詩織とは結婚するつもりだ。ただ、まだ今じゃない……」
その言葉を聞いた瞬間、私はかえって完全に冷静になった。
母のためにナースコールを押し、それからバッグの中から、もともと母に渡すつもりだった招待状を取り出した。
そして目の前のテーブルに置いた。
「必要ないわ、優斗。
私が結婚する相手は、あなたじゃない」