真夏は、彼のものにはなれなかった第1話
第1話は約2,460文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
結婚式の日。犬猿の仲だった男がアクセルを限界まで踏み込み、私の乗る車へと突っ込んできた。
私、盛岡真夏(もりおか まなつ)を手に入れられないのなら、いっそ道連れにしてしまおうと考えたのだろう。
結果として彼は重傷を負い、私は過去の記憶を失った。
血まみれで折れた足を引きずりながらも、彼は狂喜に満ちた顔で私を抱き締め、「君は俺の恋人だ」と耳元で囁いたのだ。
結婚してからの5年間、森上光貴(もりがみ こうき)は私を宝物のように大切に愛し、守ってくれた。
けれど結局、彼も飽きてしまったらしい。
いつしか友人の集まりには、ひとりの若い女が顔を出すようになった。容姿も性格も、かつての私に酷似した女だ。
彼女はねっとりとした笑みを浮かべながら、自分にあって私にないものを誇示したがった。
「私、光貴さんと昔お付き合いしてたの。
光貴さんったら、真夏さんの結婚指輪をこっそり持ち出して私にプレゼントしてくれたのよ。それにね……」
彼女は挑発するように、当てつけがましく笑ってみせた。
「私、お腹に赤ちゃんがいるの。もう4か月よ。
じゃあ真夏さんの負けね。罰として、これからの半年間、光貴さんは私のもの。子供が無事に生まれるまで、ずっとそばにいるって約束してくれたんだから」
その場にいた全員が、息を呑んで静まり返った。
ただ光貴ひとりだけが、底知れぬ昏い瞳で私と彼女を交互に見つめている。
しばらくの沈黙ののち、ようやく彼が口を開きかけたが、私はその弁明を聞く気になれなかった。
「いいわよ、彼なら譲ってあげる」
光貴の顔色がさっと青ざめた。
彼はまだ気づいていない。ずっと前に、私の記憶が戻っていることを。
彼と出会うよりずっと前、私が心の底から愛した人がいた。
名前は今里朔弥(いまさと さくや)。
呆れるほど整った美貌を持ち、その本性は底知れず狂気に満ちていて、やられたことは何倍にもして返す執念深い男だった。
そして何を隠そう、私も彼とまったく同じ性分なのだ。
光貴、あなたはもう終わりだ。
* * *
「真夏、聞いてくれ。彼女には余計な口出しをするなと釘を刺しておいたんだ。それなのに、どうしても……」
光貴が身を屈め、すがるように私の手を取ろうとした。
私は冷たく足を上げ、爪先で彼の肩を無造作に押しのけた。
そのまま、強すぎず弱すぎない絶妙な力加減で、彼をあの生意気な若い女の方へと突き飛ばす。
渋川雫(しぶかわ しずく)はすかさず彼の腕にすがりつき、顎をしゃくって勝ち誇ったように笑った。
「何をそんなに緊張しているの?あれだけ『彼女の前で騒ぎを起こすな』って口を酸っぱくして言ってたから、どれほどの強敵かと思えば」
彼女は小首を傾げ、私の全身をなめ回すように眺めると、あからさまに嘲りの笑みを浮かべた。
「ほら、見ての通りじゃない?拍子抜けするくらい扱いやすい女。ここまでコケにされても、文句のひとつすら言い返せないなんて、情けないったらありゃしない。
さあ、行きましょ。パパ、一緒に帰って、私に栄養たっぷりの食事を作ってよね」
けれど光貴は、その場から一歩も動こうとしなかった。
ただ昏い瞳を瞬きもせず、じっと私に注いでいる。
私のあまりに素っ気ない態度が気に入らなかったのだろうか。それとも、私の表情に少しでも嫉妬や悲しみの色を見出したかったのだろうか。
私はゆっくりと指を3本立て、口元だけに薄い笑みを浮かべた。
「誰が行っていいと許可したの?まだゲームは終わっていないわよ。
まず1つ目。私は戸籍上のれっきとした妻よ。日陰の愛人なんかじゃないわ」
雫の足がピタリと止まり、その顔に張り付いていた笑みが凍りついた。
「次に。実を言うと、私の結婚指輪は星の数ほどあるの。彼ったら、私がショーケースで少しでも目を留めた指輪は全部買い占めて、日替わりでつけさせてくれていたから。
あなたが盗んだそれは、その中でも私が一番気に入らなかった、いちばん安いものってわけ」
彼女の顔から一切の表情が削げ落ち、瞳の奥に剣呑な殺気が宿った。
光貴の友人たちが慌てふためき、取りなそうと口を挟む。
「真夏さん、もうそのくらいにしておいて!雫は本気でキレたら何をしでかすか分からないって、この界隈じゃ有名なヤバい奴なんですから!」
私は優雅に薄く微笑み、彼女の膨らみかけたお腹へと冷たい視線を落とした。
「最後に。光貴はね、陣痛を疑似体験したことがあるの。
『こんなに痛いなんて、君には絶対に苦しい思いをさせたくない』って涙ぐんでいたわ。
だからこの先は子供を作らないか、養子を迎えるつもりだって明言していたのよ。
でも今になって思えば……もしかして最初から、誰か都合のいい女に代理母として産ませる腹積もりだったのかしらね?」
雫の顔色が、見る見るうちに青ざめていく。
私は立てていた指を下ろし、彼女に向かってふわりと笑いかけた。
「ふふ……あなたの完敗よ」
場は恐ろしいほどの静寂に包まれた。
しばらくして、ようやく我に返った周囲の人間たちが、慌ただしくその場を取り繕い始める。
「ははっ!真夏さん、やっぱり光貴さんのこと、なんだかんだ諦めきれないんだな。こうしてちゃんと正妻の座を主張しに来たわけだし!」
「まあまあ、所詮はただの遊びなんだから、お互い本気にならないで。真夏さんも雫ちゃんも、もうその辺で矛を収めて……」
光貴はあからさまにほっとしたような息を吐いた。
すぐさま雫の手首を振り払い、安堵の笑みを浮かべて私の方へと歩み寄ってくる。
けれど私は静かに首を振り、微笑んだまま雫から視線を外さなかった。
「光貴は、あなたに譲ってあげる。でもその代償として、あなたのそのお腹の子供を置いていきなさい」
「あんた、本気で死にたいの!?私が命がけで産む子なのよ。母親はこの私ひとりに決まって……」
私は退屈そうに頬杖をついて微笑を深め、彼女の金切り声をあっさりと遮った。
「今すぐに、と言ったのよ」
私は一本の鋭い果物ナイフを、テーブルの上でそっと雫の方へ滑らせた。
刃の表面に映り込んでいたのは、信じられないという驚愕と怒りで歪んだ、彼女の凶暴な素顔だった。