真夏は、彼のものにはなれなかった第2話
第2話は約2,994文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
その瞬間、雫の理性が完全に吹き飛んだ。
彼女は手近にあった酒瓶をわし掴みにすると、テーブルの角に力任せに叩きつける。鋭く割れたガラスの首部分を握りしめたまま、獣のように私めがけて突進してきた。
「あんた、本当にぶっ殺してやるーッ!」
光貴と彼の友人たちが血相を変え、慌てて止めに入ろうとする。
けれど、私の動きの方がずっと速かった。
凶器の瓶が振り下ろされるほんの一瞬前、果物ナイフの切っ先はすでに彼女の腹部にぴたりと突きつけられていたのだ。
薄手のニットワンピース越しに、腹部のぬくもりと、わずかな膨らみが伝わってくる。
雫の動きが、嘘のように硬直した。
冷や汗が頬を伝い落ち、凶器を握る手が小刻みに震えている。
私は恐怖に引きつるその顔をじっくりと鑑賞しながら、思わず声を上げて笑いそうになった。
本気でキレたら何をするか分からない、ね。
なるほど、この雫という女は、確かに昔の荒々しかった私によく似ている。
けれど、所詮は安い模造品でしかない。
この数年間、私は光貴のそばで大人しく爪を隠しすぎたようだ。おかげで彼は、私が本性を現せばどれほど狂気を孕んだ女なのか、すっかり忘れてしまったらしい。
「真夏!」
光貴が慌てふためき、雫を背中へ庇うように割って入った。
大きな手のひらを彼女のお腹に当てるその仕草は、ほとんど本能に根ざした保護の姿勢に他ならなかった。
「もう、いい加減にしてくれ」
私は冷ややかに片眉を跳ね上げた。
「いい加減にしてって、一体誰に向かって言っているの?
私の目の前で、彼女をけしかけて私を挑発させたのはそっちでしょう?
私に正面から喧嘩を売ったからには、それ相応の痛い代償を払ってもらわないと。筋が通らないわよね?」
息が詰まるような、長い沈黙が場を支配した。
やがて光貴は深くため息をつき、まるで聞き分けのない子供に手を焼いているとでも言いたげな、甘やかな声に切り替えた。
「……分かった。俺が代わりに払うよ」
言い終えるが早いか、彼は躊躇うことなく1歩ずつ私の方へと間合いを詰めてきた。
鋭利な果物ナイフが、彼の脇腹へとゆっくり沈み込んでいく。
純白のシャツに、鮮烈な赤い血。
みるみるうちに広がっていく濃い紅の染みをじっと見つめていると、目の奥が針で刺されたように痛んだ。
それでも彼は、痛みなど微塵も感じていないかのように振る舞った。
甘く蕩けるような狂気の笑みを私に向け、血に染まっていない方の手を伸ばして、私の頬を愛おしげに撫でた。
「どうだ?これで少しは、気が済んだか?」
「光貴さん、あなた頭がおかしいんじゃないの!?」
雫が金切り声を上げてすがりつこうとする。
けれど光貴は彼女を無理やり横抱きに抱え上げると、そのまま大股で部屋を後にしてしまった。
光貴が一歩遠ざかるごとに、雫は暴れ狂い、泣き喚き、耳を塞ぎたくなるような汚い罵り声が階下からいつまでも響いてくる。
私は静かに目を伏せ、バルコニーからその惨めな様子を見下ろした。
雫は私を殺してやると喚き散らしながらも、涙声で必死に光貴の傷の深さを確かめている。
そして光貴はといえば、自分の傷には目もくれず、終始彼女の膨らんだお腹だけを大事そうに庇い続けていた。
夜の闇に寄り添い合う、ふたつの影。
私は声も出さず、自嘲するように唇の端をわずかに持ち上げた。
人の心というものは、本当に複雑で不可解なものだ。
昔、光貴と私は絵に描いたような犬猿の仲だった。ある日は奴が私の大型案件を横取りし、その翌日には私が奴の会社を徹底的に叩き潰す。そんな血みどろの間柄だったのだ。
私はずっと、彼が私のことを「いっそ死ねばいい」と憎悪しているのだとばかり信じ込んでいた。
おかしな話よね。彼が私を狂おしいほど愛していたなんて。
そして何より反吐が出そうなほど気持ち悪いのは、彼がすでにあっさりと心変わりしてしまったという事実だ。
私はそっと自分の左胸を押さえ、じわじわと全身に広がる鈍い痛みを、どうにかして無視しようと努めた。
さらに気持ちが悪いのは、この5年間で、いつの間にか私自身までもが、彼を愛してしまっていたことだ。
その日の午後、私は自室でスマホを手に、ある画面を何度も何度も見返していた。
私の本当の恋人である朔弥は、この5年間、狂ったように私を探し続けてくれていた。
けれど光貴は無数の偽の手がかりを世界中にばらまき、彼を遠く離れた海外へと誘導し続けていたのだ。
さらに「君がかつての敵から報復されるのが心配だから」というもっともらしい名目で、自分で、あるいは人を雇って常に私を監視し、縛り付けていた。
スマホに埋め込まれたチップが、私の現在地を24時間特定している。
通話の内容はすべて裏で監視され、写真をたった1枚ネット上にアップしようとするだけで、即座にブロックされる仕様になっていた。
光貴は私を黄金の鳥籠に閉じ込め、その出口の扉を自らの手で固く溶接して塞いでしまっていたのだ。
ぼんやりと過去の記憶に浸っていると、不意にSNSの友だち追加申請を知らせる通知音が鳴った。
表示されたアイコンは、光貴と雫の親しげなツーショット写真。
女は彼のたくましい腕の中にすっぽりと寄り添い、甘ったるく目を細めて笑っていた。背景に写っているのは、どこかの島の美しい夕焼けだ。
私が申請を承認した途端、相手は待ってましたとばかりに矢継ぎ早にメッセージを送りつけてきた。
まずは、見せつけるような何枚かの写真。
光貴がベッドの端にゆったりと腰かけ、雫の肌に妊娠線予防のオイルを塗ってやっている1枚。
膨らんだお腹に、この上なく優しい眼差しを向けながら、ゆっくりと円を描くように。
キッチンでは、エプロン姿の彼がコンロの前に立ち、忙しなく立ち働いている。
カウンターには、彩りも香りも申し分ない、栄養満点の妊婦向けの料理がずらりと並んでいた。
続いて送られてきた音声メッセージをタップすると、雫の得意げな声が流れ出した。
「彼の友達からこっそり聞いたんだけど、前はあんたのこと、ものすごく愛してたんでしょ?あんたが彼の『かけがえのない人』だったとか?
でも、だから何?それがどうしたっていうの。結局のところ、すっかり飽きられて捨てられたじゃない。
私は正妻だの愛人だの、そんな肩書きにはこだわらないの。最後に愛された方が、絶対的な勝者なんだから。
素敵な贈り物を贈っておいたから、ちゃんと受け取ってね」
ちょうどその音声が途切れたとき、絶妙なタイミングで玄関のチャイムが室内に鳴り響いた。
届いた宅配便の封筒を開けると、中に入っていたのは1通の離婚届だった。
夫の欄には、すでに光貴のフルネームがしっかりと記入されている。
鋭く、どこか癖のあるその筆跡は、紛れもなく彼自身の字だった。
私はそのフルネームの署名を、しばらくの間じっと見つめていた。
やがて、今度こそ心の底から、堪えきれない笑いがこみ上げてきた。
あの雫という女は、私が未練がましく彼にしがみついて泣き喚くとでも想像していたのだろうか。
冗談じゃない。こっちこそ、願ったり叶ったりの最高の贈り物だというのに!
私は一瞬の迷いもなく、妻の欄にペンを走らせた。
完成した書類の写真を撮り、メッセージアプリから光貴へと直接送りつける。
添えたメッセージは、たった一言。
【ご結婚、本当におめでとう】
送信ボタンをタップしてから1秒も経たないうちに、私のスマホが狂ったように着信音を鳴らして震え始めた。