真夏は、彼のものにはなれなかった第3話
第3話は約1,694文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のうち最後の章です。第4話は公式アプリで続きます。
私はすべて無視して、電話に出なかった。
5分後、玄関の扉が激しく蹴破られた。
息を切らした光貴が、ドア枠にもたれかかるように立っていた。
全力で走ったせいで傷口が開き、脇腹に滲む血の染みが痛々しく広がっている。
それでも光貴は気にする様子もなく駆け寄ると、私がサインした離婚届を引き裂いた。
さらに破片に火をつけ、灰にしてしまう。
顔を上げた瞬間、彼の視線が私を射抜いた。
危うい狂気と、どす黒い支配欲を孕んだ眼差しだった。
「真夏、知ってるだろう。俺は死んでも君を離さない。
そっちだって分かってたはずだ。あの離婚届は、雫が俺を騙して書かせたものだって。
なのに、どうしてサインした!」
答える間もなく、嵐のようなキスを奪われた。
荒々しく性急で、血の匂いが混じっている。
私は必死で顔を背け、息を切らしながら笑い声を漏らした。
「……へえ。死んでも離さないって言いながら、不倫はできるのね」
彼の動きが止まる。
「それとも、こう思ってるの?私があなたを愛してる限り、どうあがいても逃げられないって」
私の皮肉げな視線を受け、光貴の表情が和らいだ。
頬を私の首筋にそっと擦り寄せる。
「俺が悪かった。どうしたら機嫌を直してくれる?」
「雫に、子供を堕ろさせて」
光貴は一切の迷いなく、「分かった」と答えた。
「彼女と別れて」
今度は、少し沈黙があった。
「……分かった」
私は何も言わず、低く笑った。
その時、枕元のスマホから引き裂かれるような泣き声が響く。
「森上光貴!あんたって人は!」
光貴の表情が一変した。
私は笑いながら画面を見せる。通話中の表示。
あの女にずっと、このやり取りを聞かせていたのだ。
電話の向こうで雫がヒステリックに泣き叫んでいる。
「私と子供を見捨てたくせに!後悔させてやる!」
一方的に通話を切った。
光貴は苛立ちを隠せず、何か怒鳴りたそうにしていたが、私の顔を見ると歯を食いしばって飲み込んだ。
荒々しく私を押しのけ、大股で飛び出していく。
のんびりと位置情報を頼りに後を追うと、大きな橋にたどり着いた。
ふたりはすでに、痴話喧嘩の真っ最中だった。
汚い言葉で罵り合いながらキスをし、殴り合いながら抱き合っていた。
私を見た瞬間、光貴は背筋を強張らせ、雫をさらに背後に庇った。
苛立ちを抑えた声で言う。
「真夏、今度は何のつもりだ?雫は今、精神的にも不安定なんだ。これ以上刺激するな!」
ところが雫が、ふいに彼の背後から飛び出してきた。
頬に涙の跡を残しながらも、瞳の奥には勝ち誇った光が戻っている。
素早く私に駆け寄ると、耳元でそっと囁いた。
「男の言葉なんて、適当に聞き流しておけばいいのよ。
言葉じゃなくて、やったことを見なきゃ。
今の私は、ふたり分の命を抱えてる。ねえ、彼がどっちを選ぶと思う?」
言い終えるが早いか、彼女は私の首を掴み、勢いよく身を躍らせた。
冷たい水面が激しく水しぶきを上げ、私は骨まで凍るような冷たさの中に突っ込んだ。
無数の水の刃が、肌を容赦なく刺していく。
雫の焦りと自信が入り混じった叫びが響いた。
「光貴!私はあなたの子を身ごもってるのよ!できるものなら、見殺しにしてみなさいよ!」
砕けた水しぶきの間へ、光貴が飛び込んでくる。
必死に私たちの方へ泳いでくる。
けれど数秒迷った末、彼が抱き寄せたのは、雫だった。
「真夏、君は泳ぎが得意だから自力で上がれるだろ。でも雫は無理なんだ!」
雫は彼の肩にもたれかかり、振り返って私に勝ち誇った笑みを浮かべる。
声を出さず、口の動きだけで告げた。
「今回は、私の勝ちね」
私も彼女に笑い返す。
「もしかしたら、勝つのは私かもしれないわよ?」
彼女は呆気に取られ、警戒心をあらわにした。
けれど私は助けを呼ばなかった。
岸に泳ぎ着くこともしない。
雫の言う通り、私は昔から泳ぎが得意だ。
ふと、気づいてしまったのだ。
生きている限り彼から逃げられないのなら、死んだふりをすればいい。
水面越しに差し込む陽光が、ひどく遠く、薄らぎながら見えた。
固く抱き合うふたつの影を見つめながら、私は静かに水の底へ沈んでいく。
さようなら、光貴。
そのまま音もなく遠くへ泳ごうとした、その時。
水面に映る影が不意に、ぴたりと止まった。