祖母の最期の願いを裏切った婚約者第1話
第1話は約2,374文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
祖母は病床に横たわり、しゃがれた声で「ただ一つの願いは、遥が結婚する姿を見ることだ」と告げた。
私・菅田遥(すだ はるか)は悲しみのあまり、泣き声すら出せなかった。その場にいた家族たちの視線が、私の後ろに立っていた黒崎蓮(くろさき れん)へと一斉に向けた。
蓮はため息をつくと、そっと私の頬の涙を拭うい、そのまま私の手を引いて病室の外へ出た。
けれど、ドアを閉めた途端、彼の表情は一気に冷たくなった。
「俺たち、もう七年も付き合ってるだろ。分かってるはずだ。俺は誰かに強いられるのが一番嫌いなんだ。
結婚は俺たち二人の問題だ。ほかの誰かの考えに左右されるべきじゃない」
彼は宥めるように、私の髪を優しく撫でた。
「結婚の話は会社が上場して状況が落ち着いてからにしよう。
今夜も会議があるんだ。とりあえずお前の家族にはうまく対応しておいてくれ。仕事が終わったら、何かプレゼントを持って帰るから」
私が言い返す間もなく、彼はそのまま女性の秘書と一緒に立ち去ってしまった。
エレベーターの扉が閉まる直前、秘書が背伸びをして彼のネクタイを整えるのが見えた。それはまるでいつものことであるかのように、あまりにも自然な仕草だった。
そして彼も、それを避ける様子さえなかった。
私は涙を拭いて病室に戻ると、笑顔を作って祖母の手を握った。
「おばあちゃん、安心して。私、三日後に結婚するよ。
結婚式の日には、絶対に見ててくださいね」
* * *
祖母は病床に横たわり、しゃがれた声で「ただ一つの願いは、遥が結婚する姿を見ることだ」と告げた。
私・菅田遥(すだ はるか)は悲しみのあまり、泣き声すら出せなかった。その場にいた家族たちの視線が、私の後ろに立っていた黒崎蓮(くろさき れん)へと一斉に向けた。
蓮はため息をつくと、そっと私の頬の涙を拭うい、そのまま私の手を引いて病室の外へ出た。
けれど、ドアを閉めた途端、彼の表情は一気に冷たくなった。
「俺たち、もう七年も付き合ってるだろ。分かってるはずだ。俺は誰かに強いられるのが一番嫌いなんだ。
結婚は俺たち二人の問題だ。ほかの誰かの考えに左右されるべきじゃない」
彼は宥めるように、私の髪を優しく撫でた。
「結婚の話は会社が上場して状況が落ち着いてからにしよう。
今夜も会議があるんだ。とりあえずお前の家族にはうまく対応しておいてくれ。仕事が終わったら、何かプレゼントを持って帰るから」
私が言い返す間もなく、彼はそのまま女性の秘書と一緒に立ち去ってしまった。
エレベーターの扉が閉まる直前、秘書が背伸びをして彼のネクタイを整えるのが見えた。それはまるでいつものことであるかのように、あまりにも自然な仕草だった。
そして彼も、それを避ける様子さえなかった。
私は涙を拭いて病室に戻ると、笑顔を作って祖母の手を握った。
「おばあちゃん、安心して。私、三日後に結婚するよ。
結婚式の日には、絶対に見ててくださいね」
私の言葉を聞いて、病室にいた親戚たちは皆、ほっとしたように息をついた。
祖母は目尻を赤くしながら、「そうかい、よかった」と何度も繰り返した。
両親を車で家まで送り届けた後、母に書斎へと呼び出された。
「ずっと迷っていたんだけど、やっぱりあなたに話しておこうと思うの」
母は言いづらそうに言葉を切り、痛ましそうに私を見つめていた。
「先月のあなたの誕生日のことよ。蓮さんはお祝を届けに来てくれたけれど、ほんの数分で帰ってしまったでしょう?
その三十分後くらいにね、私の友人が南町のペットクリニックで彼を見かけたの。部屋着姿の女性に付き添って、犬の診察に来ていたそうよ。その女性が、神崎香月(かんざき かづき)という秘書の方だったみたいで……」
母は友人とのトークルームを開いて、一枚の写真を見せてくれた。
そこには、包帯を巻いた子犬を抱えた香月が、何かを楽しげに話している姿が写っていた。
蓮は彼女の隣で少し俯き、真剣な表情で彼女の話に耳を傾けている。その眼差しには、隠しきれない包容と甘やかな愛しさが満ちていた。
二人の仕草そのものは決して親密すぎるものではない。けれど、まるで見えない糸で固く結ばれているかのように、人混みの中でもひときわお似合いに見えた。
写真の中の蓮を見つめながら、私は少し意識が遠のくような感覚に襲われた。
かつて、彼はあんなふうに真っ直ぐで、熱を帯びた眼差しで私を見ていた。私の喜びも怒りも哀しみも、そのたびに彼の感情を揺らしていた。
それなのに今は違う。私が悲しみのあまり涙を流していても、彼はただ、感情的になるな、これ以上面倒をかけるなと言うだけだった。
「あなたたち、もうこんなに長く付き合っているのよ。本当に蓮さんは結婚する気があるなら、とっくに自分から言い出していたはずでしょう。
今日みたいに無理やり結婚を急かしたところで、あなたが幸せになれるとは思えないわ。お母さんは心配なの。だから、いっそ……」
母の言葉を遮るように、私は淡々と告げた。
「お母さん、私は結婚したいの。でも、もう蓮と結婚するつもりはない」
実家から戻った頃には、もう夜もかなり更けていた。
玄関のドアを開けると、意外なことに蓮がまだ起きていた。彼は部屋着のままソファに座り、パソコンで米国株のチャートを見ていた。
私の帰宅に気づくと、彼はパソコンを閉じ、眼鏡を外して詰問するような視線を向けてきた。
「今日は随分と遅かったじゃないか」
何か言い返そうとして、言葉を飲み込んだ。あなたのほうが、私より遅く帰ることなんていくらでもあるじゃない――そう言いたかった。
けれど、今さら彼と言い争うことに何の意味もない気がして、私はただ適当にこう返した。
「別に……お母さんと少し長く話してただけ」
蓮は視線を落とすと、テーブルにあったジュエリーボックスから、きらきらと輝くネックレスを取り出し、こちらへと歩み寄ってきた。