祖母の最期の願いを裏切った婚約者第3話
第3話は約1,825文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のうち最後の章です。第4話は公式アプリで続きます。
ドアがバタンと乱暴に閉められた。玄関に飾ってあった結婚写真が落ち、粉々に砕け散った。
このマンションは、私たちが付き合って三年目に買ったものだった。内装は私が一から手をかけて整えた場所で、その隅々にまで、かつて私が結婚に抱いていた期待が詰まっていた。
けれど今のここには、失望しか残っていない。あの頃のぬくもりは、もうどこにもなかった。
私はクローゼットを開け、自分の服を取り出して、一枚ずつ丁寧にたたみ、あらかじめ用意しておいたスーツケースに詰めていった。
書斎ではマイナンバーカードだけを持ち出し、それ以外の物には一切手をつけなかった。
荷造りを終えると、私は当日配送のサービスを使って、スーツケースを先に借りておいたマンションへ送った。
新居に落ち着いてから、私はソファに座ったままぼんやりしていた。すると、スマホがふいに震えた。
画面を開くと、香月が投稿を上げていた。
【生理でお腹が痛すぎる……でも、痛み止めを買ってくれる人がいて、本当に幸せだわ】
添えられていたのは、キッチンで撮られた一枚の写真だった。
写真に写っていた男は体格がよく、きっちりとしたスーツ姿の上にエプロンまでつけて、カメラに背を向けたままコンロの前に立っていた。
顔は見えなくても、その仕草だけで彼が今どれほどリラックスしてくつろいでいるかが伝わってくる。私に向ける冷たい態度とは、まるで別人のようだった。
以前の私なら、香月の挑発に取り乱し、感情を爆発させて、蓮に説明を求めていただろう。
けれど今の私は、ただ指先を伸ばして、その投稿に何気なく「いいね」を押しただけだった。それから蓮と香月のSNSアカウントを両方ともブロックした。
ほどなくしてドアがノックされ、一通の封筒が届いた。
中には、赤い台紙に箔押しが施された招待状が入っていた。
それと同時に、スマホに浅倉悠真(あさくら ゆうま)からのメッセージが届いた。
彼は親戚の紹介で知り合った投資家で、落ち着いた物腰の人だ。三日前、私が結婚を決めたその夜に、彼と「契約結婚」を一緒に進める話をまとめていた。
【招待状は届いた?君が選んだデザインだけど、見本を見て気に入ってもらえると嬉しいんだが】
私は少し目を見張った。まさか彼がここまで手際よく、しかも細やかに進めてくれているなんて思ってもみなかった。こんなふうに地に足のついた安心感を、蓮は一度も私にくれたことがなかった。
我に返った私は、【ありがとう、気に入ったわ】と悠真に返信した。
そしてもう一度、招待状に記された挙式の日取りへ目を落とす。あと三日――私にとっては、それで十分だった。
翌朝早く、私は会社へ向かった。手元に残っているプロジェクトを、きちんと最後まで片づけておきたかったからだ。
けれど執務エリアに足を踏み入れた途端、少し離れた場所からひそひそとした声が聞こえてきた。
「昨日、神崎さんの投稿見た?社長がわざわざ痛み止めを買ってあげたらしいよ」
「社内中その話で持ちきりなのに、社長は何も否定してないしね。ってことは、認めたってことじゃない?」
「正直、神崎さんって社長とすごくお似合いだと思うわ」
私は思わず立ち止まった。かつて蓮は、社内で交際を公にすれば仕事に支障が出ると言い張り、ずっと私たちの関係を周囲に隠してきた。それなのに、相手が香月だと隠そうともしないのか。
同僚たちは私に気づくと、ぴたりと噂話をやめ、そろって気まずそうな表情を浮かべた。
香月がまだ入社していなかった頃は、彼女たちもこの会社が私と蓮で大学卒業後に一緒に立ち上げたものだと知っていた。だから当然のように、私と蓮こそが一番お似合いなのだと思っていたのだ。
私は彼女たちの気まずそうな様子を見て、その場を和ませるように言った。
「そうね、あの二人は確かにお似合いだと思うよ」
言い終えた瞬間、背後から怒鳴り声が響いた。
「遥はどこだ!」
蓮は苦虫を噛み潰したような顔で大股に歩み寄り、周囲の同僚たちを鋭くひと睨みした。
その場にいた全員がすぐに目を伏せ、誰ひとり声を上げられなくなった。
「こっちへ来い」
彼はそれだけ言うと、さっさとオフィスへ入っていった。私も後について中へ入る。
ドアを閉めると、蓮は振り返り、しばらく無言のまま私を見つめてから、ようやく口を開いた。
「昨日、香月の投稿に『いいね』したのはどういうつもりだ?それに、俺をブロックしたのはどういう意味だ?」
私はドアのそばにもたれたまま、ただ淡々とした表情で彼を見返した。