私が結婚を諦めたら、彼が悔やみ始めた第1話
第1話は約2,162文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
私は栗林清花(くりばやし さやか)。
古賀知樹(こが ともき)の実家での食事中、彼のコートのポケットから小さな箱が転がり落ちた。
拾い上げて開けてみると、なかには婚約指輪が収まっている。
知樹の母が、もどかしそうに息子の肩をポンと叩いた。
「さっさと清花ちゃんをもらいなさい。良い子は他所に取られちゃうかもよ。今夜プロポーズして、明日にでも婚姻届を出しなさい」
その場にいた全員が、ドッと笑い出した。
私は頬を染め、彼から「結婚しよう」の言葉を待ちわびていた。
だが知樹は、私の手から指輪を取り上げると、隣に座る秘書の須藤優奈(すどう ゆうな)に渡した。
「いや、これは優奈のを預かってるだけなんだ」
そう言って、いつもの優しい手つきで私の髪をくしゃりと撫でた。
「大人しく待ってて。今度二人で、気に入る指輪を見に行こう」
優奈の顔に一瞬よぎった、してやったりの笑みを、私は見逃さなかった。
私は音もなく、口元だけで笑った。
知樹は知らない。私たちに「今度」は、もうない。
私の結婚式は、今週の日曜日に決まった。
* * *
私は栗林清花(くりばやし さやか)。
古賀知樹(こが ともき)の実家での食事中、彼のコートのポケットから小さな箱が転がり落ちた。
拾い上げて開けてみると、なかには婚約指輪が収まっている。
知樹の母が、もどかしそうに息子の肩をポンと叩いた。
「さっさと清花ちゃんをもらいなさい。良い子は他所に取られちゃうかもよ。今夜プロポーズして、明日にでも婚姻届を出しなさい」
その場にいた全員が、ドッと笑い出した。
私は頬を染め、彼から「結婚しよう」の言葉を待ちわびていた。
だが知樹は、私の手から指輪を取り上げると、隣に座る秘書の須藤優奈(すどう ゆうな)に渡した。
「いや、これは優奈のを預かってるだけなんだ」
そう言って、いつもの優しい手つきで私の髪をくしゃりと撫でた。
「大人しく待ってて。今度二人で、気に入る指輪を見に行こう」
優奈の顔に一瞬よぎった、してやったりの笑みを、私は見逃さなかった。
私は音もなく、口元だけで笑った。
知樹は知らない。私たちに「今度」は、もうない。
私の結婚式は、今週の日曜日に決まった。
優奈が無邪気な笑顔でグラスを差し出した。
「私のは適当に買った安物です。清花さんの審美眼には到底及びませんわ」
私は言葉を返さず、彼女の薬指にはまる指輪に視線を落とした。
リングの内側には、私と知樹のイニシャルが刻まれている。
これは紛れもなく、私自身がデザインした指輪だ。
知樹が背後から何げなく私の腰に腕を回し、優奈へ淡く笑んだ。
「口が上手だな。おとなしくフルーツでも食べていろ」
窘めるふりをしつつ、その声には優奈への親しみとかばう響きが滲んでいた。
優奈は可愛らしく舌を出すと、距離を置いてフルーツをつまみ始めた。
この曖昧な関わり方は、上司とアシスタントの一線を完全に超えている。
ここ数年、知樹は様々な宴席に優奈を連れ歩き、見聞を広めさせるためだと言い張ってきた。
今では家族の集いにまで彼女を同席させるようになっていた。
周囲から、私を探るような、あるいは同情するような視線が一斉に注がれた。
知樹の母も何か言いたげだったが、結局ため息をつき、黙り込んだ。
その瞬間、スマホが短く震えた。母から送られた数秒の動画だ。
映像には、優奈の口をつけたグラスを知樹が何の躊躇もなく受け取り、新たに酒を注いで一気に飲み干す姿が映っていた。
【清花、お父さんもお母さんも、ただあなたにしっかり考えてほしいだけなの。
七年よ。七回も結婚の話を逸らし続けた男が、本当にあなたを幸せにしてくれるの?】
指先がかすかに震え、私はスマホをロックした。
宴席の間ずっと、私はいつも通り穏やかに知樹の隣に座り、笑顔で会話を続けた。
宴が終わると、知樹は当然のように私の手を取ろうとした。
私はさりげなく身をかわし、彼の脇をすり抜けた。
「帰りましょう。少し疲れた」
知樹は一瞬きょとんとしたものの、すぐに後を追ってきた。
車内は静まり返り、私はただ窓の外を流れる景色を眺めていた。
街のネオンがきらめき、ガラスに映る私の顔をまだらに照らし出した。
家に近づいた頃、知樹が唐突に話し出した。
「指輪の件は俺が悪かった。
優奈には一切落ち度がない。俺が勝手にやっただけだから、彼女を責めるな」
心がずっしりと沈んだ。
彼は最初から、すべてを理解していたのだ。
知樹は小さく息をつき、腕を伸ばして私を抱き寄せた。
子供をあやすような甘い口調で、柔らかく囁いた。
「機嫌を直してくれよ。
今度埋め合わせると約束しただろ。式では、これよりずっといい指輪をつけてやる。な?」
込み上げる苦しさを必死に抑え込んだ。
この七年間、彼は何があっても「今度だ」という言葉で済ませてきた。さすがにあんまりだ。
「知樹」
私は顔を横に向け、まっすぐ彼を見つめた。
「七年も付き合って、周りもみんな知っているの。
それなのにきちんとした形がないせいで、人に聞かれたとき、どう説明すればいいかわからない」
車内に重たい沈黙が訪れ、私を抱く腕がわずかに緩んだ。
「二人で穏やかに暮らせればそれでいい。他人への説明など必要ない」
知樹は私の頬を軽くつまみ、苦笑を浮かべた。
「別に結婚しないってわけじゃない。そんなに焦っていたら、周りに笑われるぞ」
彼は何事もないように、軽く言い流した。