私が結婚を諦めたら、彼が悔やみ始めた第3話
第3話は約1,499文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のうち最後の章です。第4話は公式アプリで続きます。
知樹はコートを脱ぎながら、部屋に向かった。
「私、結婚するの」
瞬きもせず、その背中に向けて静かに告げた。
「式は今度の日曜日に」
知樹の足が数十センチ先で止まった。
間もなく彼はゆっくり振り返り、瞳には徹底的に冷めた色だけが宿っていた。もう取り繕うつもりさえない。
「清花、いったい何を騒いでるんだ」
眉間を揉む仕草に、疲労と苛立ちが滲み出ていた。
「結婚はもう少し待とうと話したはずだ」
「あなたは待てばいい。私は自分の道を進むだけ」
声も表情も、不思議なほど凪いでいた。
「式場もドレスも予約済み。ハネムーンの行き先も、すべて決めてある」
彼は一瞬息を呑み、ふっと冷笑を漏らした。
「つまり早く結婚したいわけか。わかった。今週優奈に頼んでスケジュールを調整させ、婚姻届を出しに行こう。
指輪のデザインも予算も君の自由、式も望む通りに整えてやる。これで気が済んだか」
その言葉をきっかけに、長く抑え込んでいた心が崩れ落ちた。
冷たい室内の灯りが目に刺さり、私は色のない笑みを浮かべた。
「知樹、それは……プロポーズなの?
それとも、哀れみ?施し?」
面倒くさそうに、渋々応じる態度。
取引のようで、恩着せがましい口調。
七年待ち続けた「結婚する」という言葉が、こんな歪な形で届くなんて思いもしなかった。
彼は眉根を寄せ、真っ直ぐ私を見つめた。
「俺に一体どうしろと言う?今は会社の資金調達が正念場で、私事に気を割く余裕などない。
さっきのはただの口走りだ。暇なら別のことを探し、結婚ばかり執着するな。そんなことに、もう疲れた」
かつては胸を刺したその言葉も、今の私には何の痛みも与えなかった。
彼は日増しに多忙になり、優奈との私的な密会も後を絶たなかった。
数え切れない残業の夜、彼が本当に会社にいたのだろうか。
レストラン、映画館、あるいは彼女の部屋で……
もう自分を欺くのも、無理に耐えるのもやめる。
私は彼を真正面から見据え、淡く笑った。
「知樹、疲れたって言うけど、私だって長い間我慢して、ずっと疲れていたの」
それ以上語らず、私は寝室へ移った。
ドレッサーの上には、私一人で描き上げた婚約指輪のデザイン画が開かれたままになっていた。
あの頃は胸を躍らせ、彼とこのデザインについて話し合いたかった。
だが「後にしよう」と軽くあしらわれたきり、彼は二度とこの紙に目を向けることはなかった。
ゆっくり目を閉じ、自嘲の笑みが唇に浮かんだ。
そこへスマホの着信が響き、現実へ引き戻された。
画面の「母」の文字を見た瞬間、いつの間にか視界が滲んでいた。
私は慌てて涙を拭った。
「お母さん……」
電話越しの母の声は、諭しつつも優しく温かかった。
「バカな子ね、やっとお母さんのこと思い出したの?嫌なら、見合いを無理して受けなくていいのよ。
お父さんが心を込めて選び抜いたお見合い相手で、家同士も昔からの付き合いだけど、結婚では何より、あなたの幸せが一番大切なの。
古賀くんとの関係は七年でしょ。簡単に割り切れないのはわかる」
母はため息をついた。
「でも、私たちはただ、あなたに辛い思いをさせたくないだけ。
招待状の印刷はまだ止めているから、今ならすべて取り返しがつくわ」
私はついに涙を堪えられず、目を赤くした。
そして穏やかに口を開いた。
「お母さん。私は勝っても負けても、ちゃんと結果と向き合える人だよ。
お父さんに伝えて。招待状、そのまま印刷してください」
この日を境に、知樹との関係は完全に氷点下に冷め切った。
彼は仕事を口実に会社に泊まり込むようになった。
けれど、それはむしろ好都合だった。整理する時間がたっぷりできた。
私は丁寧にこの家に残る自分のすべての痕跡を、一つずつ消し去っていった。