私とあなたの距離は遥か彼方第1話
第1話は約1,706文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
夫は几帳面で、家のことは全部彼のスケジュールに従わなければならない。
だが、娘の誕生日の日に、彼はアシスタントを連れて遅れてやって来た。
同じように几帳面な娘は、怒るどころか、逆に笑顔で二人を呼んで一緒にケーキを切らせた。
夫と娘がクリームを顔につけて、満面の笑みでアシスタントと写真を撮っているのを見て、私は心の底から失望した。
翌日、私は離婚届を夫の前に叩きつけた。
彼は眉をひそめて理解できない様子で言う。
「娘がお前とケーキを切らなかっただけで?」
「そうよ」
* * *
夫の坂本昌也(さかもと まさや)は几帳面で、家のことは全部彼のスケジュールに従わなければならない。
だが、娘の誕生日の日に、彼はアシスタントの松井莉緒(まつい りお)を連れて遅れてやって来た。
娘は笑顔で二人を呼んで一緒にケーキを切らせた。三人が一緒に写真を撮っているのを見て、私の心は一気に冷えきった。
翌日、私は離婚届を昌也の前に叩きつけた。
彼は理解できない様子で言う。
「娘がお前とケーキを切らなかっただけで?」
「そうよ」
昌也は鼻で笑い、離婚届に一瞥をくれて、嫌気の色を浮かべる。
「須藤玲奈(すどう れな)。スケジュールによれば、今のお前は海外で取引の交渉をしているはずだろ。ここで俺と揉めている場合じゃない。
三分後には俺の会議が始まる。お前は帰れ」
その無関心な態度に、私はふと可笑しささえ覚えた。
口を開きかけたその時、莉緒がドアを開けて入ってくる。
「坂本社長、準備できたよ!すぐに行ける……
あっ、須藤さんもいらしたんですね。じゃああたしは外で」
莉緒がしょんぼり引き返そうとした瞬間、昌也はすぐに遮る。
「必要ない。彼女はもうすぐ帰る」
彼は眉をひそめて私を見つめる。その視線には露骨な追い出しの意味がある。
私はゆっくりと離婚届を手に取り、サイン欄を指で叩く。
「あなたがサインすれば、すぐに帰るわ」
昌也は立ち上がり、眉を寄せて私を睨みつける。目の奥に燃える怒りがあらわになる。
空気が一瞬で張りつめた。
異様な気配を感じた莉緒はすぐに私に頭を下げる。
「すみません、須藤さん、契約の話をしていたなんて知らなくて。邪魔してしまいました、失礼します!」
そう言い残し、彼女はちらりと名残惜しそうに昌也を見てから、駆け出して行った。
昌也の顔色が一気に変わった。彼は慌ててペンを取り、勢いよくサインを走らせる。
「規則を破ったのはお前だ、自分で罰を受けろ!」
冷えた一言を残し、彼は体裁も忘れて莉緒を追いかけて出て行った。
誰もいなくなったオフィスで、私は思わず笑いがこぼれる。
昌也はとても几帳面で、規則に異常なまでに執着している。
結婚以来、家のすべては彼のスケジュール通りに進めなければならない。
少しでも遅れれば罰として土下座を強いられる。
その罰は最初、私と娘の両方に科せられていたが、やがて娘が彼と同じようになって、標的は私一人になった。
結婚して七年、私は昌也が取り乱す姿を一度も見たことがなかった。
けれど昨日の宴会で、酔いにまみれた彼が莉緒を抱えて現れ、娘が楽しそうに二人を呼んでケーキを切らせた時。
私の頭は真っ白になった。
そのあとの記憶は曖昧だ。彼の首筋に残る赤い痕と娘が楽しそうに莉緒の頬にキスする姿を見ると。
私の脳裏に残ったのはただ一つの思いだ。
離婚する。
しかも昌也が最後に言い放った言葉が、皮肉にしか聞こえなかった。
規則?
彼自身こそ忘れ去ってるくせに。
会議だと嘘をつき、実際は莉緒と遊びに出かけた。
私が彼に会う時には必ず事前に連絡するのに、莉緒は彼のオフィスに勝手に入れる。
サインの入った離婚届を握り、私はオフィスを後にした。
車に乗り込み、ネクタイを緩めて、空っぽになった思考をそのまま漂わせる。
その時、不意にスマホが鳴る。
私ははっとして我に返る。
娘の担任からの電話だ。私はその電話を受ける。
「坂本一花(さかもと いちか)の親ですか?一花ちゃんが下校の際に急いでいて、カバンを学校に忘れていきました。親の方、取りに来てもらえますか?」
その知らせに、胸の奥に疑念が生まれる。
スケジュールによれば、今の一花は学校で数学オリンピックの練習をしているはずなのに、どうして早退した?