結婚する前、ウェディングドレスが血に染めた件第3話
第3話は約2,072文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のうち最後の章です。第4話は公式アプリで続きます。
あの頃の私は、つまらない意地を張っていた。
あんな目に遭ったと知られたら、智哉に嫌われるんじゃないか。そう思うと、どうしても言えなかった。
結局、あの日のことは誰にも話せないまま、ずっと一人で抱えてきた。
車が椎代山へ近づくにつれ、息が苦しくなっていく。
「行かない……!絶対に行かないから!」
体が勝手に後ずさる。
そんな私を見て、智哉もとうとう声を荒らげた。私を強く抱きしめ、苦しげに叫ぶ。
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ!もう莉奈とは会わない。それでいいんだろ!」
夜の闇に、悲痛な声が響いた。
まるで追い詰められているのは智哉のほうで、私が無理難題を押しつけているみたいだった。
そのとき、智哉のスマホから聞き慣れた着信音が流れた。莉奈専用の着信音だ。
苛立っていた智哉は、電話に出るなり怒鳴った。
「いい加減にしろ!もう電話してくんな!」
けれど、向こうが何か言った途端、智哉の顔から血の気が引いた。
ついさっきの言葉など、もう頭から消えてしまったらしい。智哉は青ざめた顔で私の肩を掴んだ。
「望美……莉奈が死のうとしてる」
その指がちょうど私の傷口に食い込み、滲んだ血が智哉の指を濡らしていく。けれど、彼はそれにも気づかなかった。
痛みで全身が震えているのに、私の声は不思議なくらい冷静だった。
「……じゃあ、行けば」
智哉は迷いもしなかった。すぐに私から手を離す。
「望美、これで最後にする。約束するから」
私は遠ざかっていく背中をただ静かに見送った。悲しみも怒りもなく、ただやっと解放されたような気がした。
これが初めてではなく、これで最後にもならないと分かっていたからだ。
家に戻り、私は傷の手当てをした。しばらくすると、智哉から電話がかかってきた。
「望美、莉奈は無事だったけど、まだかなり不安定でさ。今から病院に連れてく。卒業のこともあって、最近ずっと参ってるみたいなんだ。だから今回は大目に見てやってくれないか?
あ、それとさ、俺今ここを離れられないから、代わりに莉奈の卒業祝いにドレスを一着見立ててくれないか?少しでも元気出させたくてさ。あいつのサイズはバスト85、ウエスト59で、体重は48キロで……」
莉奈のことなら、何でも知っている。そんな智哉の声を聞きながら、私はぼんやりとリビングを見た。そこには、ウェディングドレスが掛けられている。
人のことには、あんなに気が回る人なのに。私がドレスのウエストを少し大きめに直していたことには、気づかなかった。
結婚式の日に教えて、驚かせるつもりだった。
私はわずかに膨らみ始めたお腹に目を落とした。とうとう涙がこぼれた。
智哉をLINEでブロックした。そして、中絶手術を予約した。
翌朝、激しくドアを叩く音で目が覚めた。
扉を開けるなり、智哉が私の腕を掴んで乱暴に引っ張った。怒りを必死に押し殺しているのが分かった。
「望美、お前はずっと優しいやつだと思ってた。まさか……ここまでやるとは思わなかった」
何を言われているのか分からず、頭が真っ白になった。
智哉は嫌悪を隠そうともせず、吐き捨てた。
「とぼけんなよ。莉奈が卒業できなくなったの、お前が裏で手を回したんだろ!」
莉奈が講義をサボって単位を落とし、卒業できなくなったことと、私に何の関係があるというのか。
言い返そうとした私を遮るように、智哉が鼻で笑った。
「黒田建吾(くろだ けんご)さん、広栄大学の教授だろ。関係ないなんて言わせないぞ」
――バチンッ!
その言葉を聞いた瞬間、何かがぷつりと切れた。気づけば、智哉の頬を平手打ちしていた。
私が継父の黒田と絶縁していることを、智哉は誰よりも知っているはずだった。
母の再婚後、一時は黒田姓を名乗っていた。けれど、あの男との関係を断ったあと、私は元の姓である水城に戻した。そこまでして、あの男との繋がりを捨てたかった。
5年前、弟と喧嘩したのをきっかけに、酒に酔ったあの男が私の部屋に押しかけてきた。そのままベッドに押さえつけられ、太い手で首を締め上げられた。
どれだけもがいてもあの男はびくともせず、水から引き上げられた魚のように、私は必死に息を求めることしかできなかった。もう駄目だと思ったそのとき、智哉が飛び込んできた。
怒り狂った智哉はあの男を殴り倒し、頭を何度も壁に叩きつけて半殺しにした。私は慌てて後ろから抱きついて止め、そこでようやく智哉は我に返った。
私が黒田をどれほど憎んでいるか、智哉は知っている。それなのに、私が黒田と手を組んで莉奈の卒業を邪魔したと思っているのだ。
指先から感覚がなくなり、全身が冷えていくようだった。
私は玄関を指さした。智哉をまっすぐ見て、一言ずつ告げる。
「出てって。……もう二度と、私の前に現れないで」
そう言い終えたとき、莉奈が飛び込んできて、その場に崩れ落ちるようにして土下座をした。
「望美さん……お願いですから、もう見逃してください!今まで私が悪かったなら謝りますから!でも、このまま卒業できなかったら、せっかくもらった内定まで取り消されるかもしれないんですよ……!私、これからどうしたらいいんですか……?」