義兄の子を選んだ妻へ、俺はもう帰らない第1話
第1話は約1,838文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
俺の名前は井上誠一(いのうえ せいいち)。
妻の井上香織(いのうえ かおり)の妊娠がわかったその日、俺たちは車で家へ向かっていた。
その途中、助手席に座っていた香織が、何の前触れもなく言った。
「実はね、お腹の子、雅人さんの子なの」
水野雅人(みずの まさと)は、香織の亡き姉の夫――俺の義兄だ。
一瞬、何を言われたのかわからなかった。そんな俺を見て、香織はバッグから出生前DNA鑑定の報告書を取り出した。
鑑定結果には、雅人が父親であると記されていた。
香織は少しも声を乱さず、淡々と続けた。
「あの日、あなた、高熱で後ろの席に寝てたでしょう。その間に、雅人さんとやってしまったの。
この車の中で。今、私が座ってる、この助手席で」
頭の中が真っ白になった。
何か言おうと口を開いたが、喉の奥が塞がったようで、声が出なかった。
香織は膨らみ始めた腹に目を落とし、そのまま言葉を継いだ。
「どうしても無理なら、堕ろしてもいい。でも先生には、この子を諦めたら、もう妊娠は難しいかもしれないって言われてるの。そうなったら、私たちの子どもを持つこともできなくなる。
産むかどうかは、あなたに決めてほしい」
* * *
車内に、重い沈黙が落ちた。
しばらくして、俺はかすれた声で尋ねた。
「どうしてだよ……どうして、そんなことができるんだ」
胸の奥がきつく締めつけられ、息の仕方さえわからなくなった。視界もぼやけ、気づけば涙が頬を伝っていた。
俺の様子を見た香織は、半ば強引に車を路肩へ停めさせ、頬を伝う涙を拭った。
「姉さんは子どもを残せなかったでしょう。雅人さんには、もう頼れる家族もいない。だから私が、あの人の子どもを産んであげたいと思ったの。
さっきも言ったけど、先生には、この子を堕ろしたら、もう妊娠できないかもしれないって言われてるの。そうなったら、あなたとの子どもだって、もう望めないわ。
この子を産むなら、あなたに父親になってもらってもいいと思ってる。
どうするかは、あなたが決めて」
何も言い返せないまま、全身から力が抜けていった。
ほんの数時間前まで、香織は俺に抱きつき、三人で暮らす未来を嬉しそうに語っていた。
研究所の所長を務める香織は、あのとき、喜びのあまり涙まで流していた。
「やっと私たちにも赤ちゃんができたんだね。これからはもっと頑張って働くから。二人で、この子を大切に育てていこうね」
それなのに、わずか数時間後、香織は、お腹の子が俺の子ではないと平然と告げた。
怒りに任せて拳を振り上げた。だが、どうしても振り下ろせなかった。
「そんなのってないだろ!」
香織は身じろぎひとつせず、言い返そうともしなかった。
「帰ろう。夕飯、私が作るから」
まるで今までの話などなかったかのようにそう言うと、香織は俺のシートベルトをそっと締めた。
その手が触れた途端、俺はぞっとして身を引いた。涙で視界が滲み、香織の顔がぼやけていった。
以前、香織が流産したとき、俺は自分を責め続け、重いうつ病を患った。
地元の病院では十分な治療が受けられず、香織は知人のつてを頼って、海外の専門医に診てもらえるよう手を尽くしてくれた。
それからも、何度も取り乱す俺に根気強く寄り添い、研究所の仕事まで家に持ち帰って、ずっとそばにいてくれた。
あの頃の香織を思い出すと、どうしても聞かずにはいられなかった。
「俺たちの子どもが欲しいって言ってたじゃないか。あれも嘘だったのか?」
俺がそう言うと、香織はとうとう苛立ちをあらわにした。
「この子を受け入れろなんて、無理強いしてないでしょ!」
「それじゃ、受け入れろって言ってるのと同じだろ!」
自分でも驚くほど、声がかすれていた。
香織は一瞬、息を呑んだ。そのとき、研究所の職員から彼女のスマホに電話がかかってきた。
「所長、水野さんが作業中に脚をけがして、救急車で病院に運ばれました。すぐ来ていただけますか?」
香織は顔色を変えると、俺を車外へ押し出し、そのまま運転席に乗り込んだ。
「歩いて帰って。少し頭を冷やしたほうがいいわ」
そう言い残すと、香織は俺に目もくれずアクセルを踏み込み、そのまま走り去った。
路肩に倒れ込んだ俺は、何度立ち上がろうとしても、脚に力が入らなかった。
どれほど時間が経ったのかもわからなかった。気づけば、俺はふらつく足で家まで戻っていた。
家に着いても、頭はぼんやりしたままだった。俺はスマホを手に取り、震える指で連絡先を開くと、ある番号に電話をかけた。
「もしもし、井上誠一です。海外支援団体の長期派遣に応募します」