義兄の子を選んだ妻へ、俺はもう帰らない第2話
第2話は約1,531文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
「井上さん、本当ですか?それは助かります!」
相手は喜びをあらわにしたが、すぐに声を落とした。
「ただ……参加していただいたら、長期的に海外滞在することになります。暮らしやすい場所ではありませんし、長期となれば、ご家族ともなかなか会えません。奥さんは……」
相手が言い終える前に、俺はきっぱり答えた。
「もう決めています」
「分かりました。では、3日後にこちらから迎えを出します」
電話を切ると、俺はすぐに荷造りを始めた。
結婚して8年。家の中にあるものは、どれも香織と二人で選び、少しずつ揃えてきたものだった。
香織が収入の大半を雅人のために使っていても、俺は何も言わず、家計を支えるために必死で働いてきた。
そうして守ってきたつもりの暮らしが、今はひどく空っぽに見えた。
そのとき、玄関が開き、香織が帰ってきた。
荷造りをしている俺を見るなり、また当てつけに家を出ようとしていると思ったらしい。
「またそんな子どもみたいな真似して。産んでほしくないなら、はっきりそう言えばいいでしょ。
雅人さんはあんな大けがをしてるのに、あなたに悪いからって、この子は諦めたほうがいいと言ったのよ。
あの人は一人で生きていくだけでも大変なの。少しくらい、あの人の立場も考えてあげられないの?」
思わず、乾いた笑いが漏れた。
「じゃあ、俺は?この8年、ずっと楽をしてきたとでも言うのか?」
「いい加減にして!」
ついに香織も声を荒らげた。
「雅人さんは奥さんを亡くして、頼れる人もいないのよ。でも、あなたには私がいるでしょう。それに、今まで不自由なく暮らせたのだって、私の立場のおかげじゃない」
あまりの理不尽さに、怒るより先に呆れてしまった。
香織は姉を亡くしてから、雅人に何かあるたび、まるで自分が妻であるかのように世話を焼いてきた。
俺が大けがをしたときも、支援先の山奥で足止めされ、3日間帰れなかったときも、父が病気で亡くなった日でさえ、香織はそばにいなかった。
それなのに、雅人が少しでも体調を崩せば、香織は何もかも放り出して駆けつけた。
香織にとっては、俺がこの8年耐えてきたことなど、苦労のうちにも入らないらしい。
目の奥が熱くなり、俺は自嘲するように口元を歪めた。
「研究所の所長まで務めてるくせに、義兄と不倫して子どもまで作って……よく平気な顔をしていられるな」
そのとき、雅人が足を引きずりながら、慌てた様子で部屋に入ってきた。
「誠一、そんな言い方はないだろ。俺はずっと、お前を実の弟のように思ってきたんだ」
雅人の目がみるみる赤くなった。
「責めるなら俺を責めてくれ。自分の子どもが欲しいなんて思った俺が悪かった。お前が望まないなら、この子は諦めてもらう。今すぐ病院に相談してくる!」
そう叫ぶと、雅人は足を引きずったまま外へ出ていこうとした。
香織は苛立たしげに舌打ちし、俺を突き飛ばして雅人のあとを追おうとした。
押された勢いで、古傷のある後頭部を後ろの壁に強く打ちつけた。激痛に息を詰まらせながら、俺はとっさに香織の腕をつかんだ。
「香織……頭が……痛い……」
香織は俺の手を乱暴に振り払った。
「家でおとなしく反省してて。雅人さんに何かあったら、絶対に許さないから!」
そう吐き捨てると、香織は外へ飛び出し、乱暴にドアを閉めた。
香織が出ていったあとになって、後頭部から流れた血が首筋を伝っていることに気づいた。
痛みで何度も意識が遠のきそうになった。俺は床を這うようにしてスマホをつかみ、ほとんど見えない画面を手探りで操作して、連絡先の一つに電話をかけた。
「頭を打って……血が止まらない。助けて……」
偶然つながった相手は、香織だった。
「何言ってるの?そんな大けがしてるわけないでしょ。くだらないことで電話してこないで!」