義兄の子を選んだ妻へ、俺はもう帰らない第3話
第3話は約1,732文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のうち最後の章です。第4話は公式アプリで続きます。
次に目を覚ましたとき、ぼんやりした視界の先に白い天井が見えた。頭には厚い包帯が巻かれていた。
看護師によると、あと少し発見が遅れていたら危なかったらしい。
包帯の上から後頭部に触れた瞬間、息が止まりそうな痛みが走った。
もう少しで、香織に殺されるところだった。
そう思うと、抑えていたものが込み上げ、涙が頬を伝った。
その涙を拭う間もなく、病室のドアが勢いよく開き、母の隣に住む女性が血相を変えて駆け込んできた。
「大変よ!香織さんが、お母さんの部屋を雅人さんに譲るって、荷物を勝手に運び出してるの!
お母さん、そのショックで倒れたの。早く来て!」
一瞬、頭が真っ白になった。
俺は頭に包帯を巻いたまま病院を飛び出し、ふらつく足で母のマンションへ急いだ。
マンションに着くと、香織は引っ越し業者に指示を出し、母の荷物を次々と玄関の外へ運び出させていた。そのすぐそばで、母が胸を押さえたまま力なく崩れ落ちた。
「何してるんだ!」
俺は母に駆け寄り、その体を抱きとめた。香織を睨みつけると、彼女は悪びれるどころか、迷惑そうに俺を見返した。
「お義母さんが近所中に、私のお腹の子は雅人さんの子だって言いふらしたのよ。おかげで、私たちがどれだけ噂されてると思ってるの!」
「だって、本当のことだろ」
「あなた……!」
香織の顔が引きつった。
「姉は仕事中の事故で亡くなって、雅人さんは一人きりになったの。今は、お義母さんより雅人さんに住んでもらったほうがいいでしょ。
それに、この部屋は私の貯金とボーナスで買ったの。誰に住んでもらうかは、私が決めるわ。
お義母さんは、前の家に戻ればいいじゃない」
母にもその言葉が聞こえていたのか、俺の腕の中でかすかに身じろぎした。
結婚したとき、香織は母の手を握り、これからは俺と一緒に母を大切にすると約束していた。
雨漏りのする古い借家から引っ越させ、いつか自分が家を買ったら、そこに住んでもらうとまで言っていた。
だが、あのときの約束など、香織はもう忘れてしまったらしい。
頭の激痛をこらえながら、俺は母を抱きかかえ、香織の前に立った。
「母さんにもしものことがあったら……お前とは離婚だ!」
香織は息を呑んだ。頭に包帯を巻いた俺と、腕の中の母を見比べ、何か言いかけたが、結局何も言えなかった。
そこへ、雅人が声を詰まらせながら口を挟んだ。
「香織さん、やっぱりその部屋には誠一のお母さんに住んでもらってくれないか。俺のことはいいから。俺のせいで二人が離婚することになったら、一生後悔する」
まるで、俺のほうがわがままを言っているようだった。
香織は、見損なったとでも言いたげに俺を見た。
「こんなときに離婚まで持ち出すなんて……雅人さんにそこまで言わせて、満足なの?
いいから、今すぐ謝って!」
香織が何を叫んでいるのか、もう耳に入らなかった。腕の中で、母の顔からみるみる血の気が引いていった。
そのとき、すぐそばに停めてあった香織の車が目に入った。母をすぐ病院へ連れていくには、あの車しかなかった。
「今はそんな話をしてる場合じゃない!香織、頼む。母さんを病院に連れていってくれ!」
すると雅人が突然、太ももを押さえて苦しそうにうめき、傷ついたように目を伏せた。
「誠一、悪かった。俺さえいなければ、こんなことにはならなかったんだよな。妻を亡くした俺が、子どもまで欲しがったのが間違いだった……」
雅人の苦しそうな様子を見るなり、香織は迷わず駆け寄り、肩を貸して車に乗せた。
俺は母を抱えたまま必死に後を追い、閉まりかけたドアに手をかけた。だが、香織はその手を強く払いのけた。
そのはずみで塞がりかけていた後頭部の傷が開き、激痛で目の前が大きく揺れた。
周囲には何人もの住人が集まっていたが、さっきの言い争いをただの家族げんかだと思ったのか、助けを求めても誰も動いてくれなかった。
俺は母を支えながら大通りまで出て、通りかかるタクシーに必死で手を上げた。なかなか空車がつかまらなかったが、ようやく一台が止まってくれた。
病院に着くなり、母を支えて救急外来の受付へ向かった。だが、事情を伝えると、受付のスタッフは申し訳なさそうに首を振った。
「申し訳ありません。今は空いている病床がなく、こちらでは受け入れられません」