花が落ちる頃、再び彼女に逢う第3話
第3話は約1,786文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のうち最後の章です。第4話は公式アプリで続きます。
その言葉に、病室の空気が一瞬で凍りついた。
社員たちは一斉に息を呑み、ただ静玖だけが、目尻にほんの一筋、勝利の笑みを浮かべた。
すべての視線が亜里に注がれる。見物人たちが、彼女の狼狽を待ち構えているようだった。
しかし、亜里は静かにうなずいた。
「ええ、いいよ」
「……本当に?」
静玖が思わず時凪に抱きつき、声が弾んだ。
「時凪!本当にあなたと結婚できるの?大丈夫、たとえ後で離婚することになっても……一度でもなれたら、それで私は幸せなの」
「亜里……ありがとう」
時凪の、どこかほっとしたような感謝の眼差しを受け止め、亜里はほほえんだ。
「どういたしまして。当然のことだから」
「わあ……奥様、肝が据わってらっしゃる……愛人に正妻の座を譲るなんて」
「もし私が彼女のお腹の子だったら、生まれたくないなあ。こんな情けない母親、恥ずかしすぎる……」
何人かの社員がささやき合う声が、針のように飛んできたが、亜里は気にも留めない。
「離婚協議書と離婚届ができたら、渡してください。すぐにサインするから」
彼女が振り返り、歩き出そうとしたその時、スマホが鳴った。
「もしもし、亜里様でいらっしゃいますか?ご依頼いただきました中絶手術のご手配が整いました。本日午後3時から承れますが、ご都合はいかがでしょうか」
「ええ、大丈夫です。今から向かいます」
「ご主人様もご同伴されますか?」
「主人はいません」
電話を切ると、時凪が険しい顔で近づいてきた。
「誰からの電話だ?どこへ行くと言った?『主人はいません』って……俺がお前の夫じゃないのか?」
「ただ、新しい立場に早く慣れておこうと思って。それもいけない?」
亜里は彼を見つめ、冷ややかな笑みを浮かべた。
「じゃあ、新しい奥さんを大事にしてね。私は、これで失礼する」
その言葉は、なぜか時凪の胸をぎくりと締め付けた。
彼女の揺るがない背中が、どんどん遠ざかっていく。その瞬間、押し寄せる得体の知れない焦燥感に、彼は思わず一歩踏み出した。
その時、静玖がベッドの上で、赤ん坊をそっと、しかし確かに、つねった。
「ぎゃあああ――!」
赤ん坊の激しい泣き声に、時凪は慌てて引き返した。
ドアの外で、亜里はそっと目頭を拭い、産婦人科の診察室へと歩を進めた。
――時凪、覚えておいて。今日のすべては、あなた自身が選んだ道よ。後悔なんて、絶対にしないでね。
待合室で手術の順番を待つ間、兄からのメッセージが届いた。
【航空券はもう手配済み。一ヶ月後、海外で会おう。ゆっくり休め】
航空券の画面を見つめ、亜里はようやく、ほんの少しだけ胸のつかえが降りた気がした。
スマホをしまおうとしたその時、Lineの通知音が鳴った。
送り主は静玖。
何枚かの写真。
彼女と時凪がベッドに並んで横たわり、その間に赤ん坊が眠っている。時凪は深く眠り、静玖はカメラに向かって、勝ち誇ったような幸せな笑顔を浮かべていた。
――三人の家族。なんて完璧な絵なんだろう。この幸せは、本来、亜里のものであったはずだった。
胸が鋭く疼いた。亜里はそっと自分のお腹に手を当てながら、つぶやいた。
「……ごめんね、赤ちゃん」
【亜里さん、実は時凪、もうとっくにあなたを愛してないよ。知らなかったでしょう、彼があなたに触りたがらないのは、あなたが彼を満足させられないからだって】
【あなたは堅すぎるし、ベッドの上でしか女じゃないって、彼は言ってた。私とは違う。私はどこでも、どんな場所でも、彼を喜ばせてあげられるから】
【でも、本当にありがとう。あなたがいなかったら、私が新井夫人になれる日も来なかったでしょうからね】
メッセージが次々と流れ込む。亜里は無表情で読み流し、最後まで返信はしなかった。
「亜里様、お時間ですよ」
看護師が入ってきて、優しく声をかけた。
「はい」
彼女はスマホを置き、深く息を吸い込むと、看護師に導かれて手術室へと入っていった。
手術台の上。医師が「足を開いてください」と告げた時、彼女は恐怖で全身が震えた。
「大丈夫ですよ、すぐに終わりますから。痛くはありませんからね」
麻酔科医の優しい声が、かすかに耳に届く。
冷たい針が皮膚を貫く。意識が、ゆっくりと遠のいていく。
器具が身体の奥深くに触れた、その瞬間。
やはり、一筋の涙がこぼれた。
――ごめんね、赤ちゃん。今度はもっといい場所に生まれ変わりますように。
あなたも、よく見ておいてね。ママも、同じだから。