裏切りの夜を抜けた第1話
第1話は約3,323文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
入江千代子(いりえ ちよこ)のこれまでの人生において、最も反逆的だった出来事。
それは、浅田辰彦(あさだ たつひこ)の実家が破産した際、誰もが彼を見放す中、全財産を抱えて彼と駆け落ちしたことだった。
千代子だけは、彼の再起に賭けた。
泥水をすするような三年の生活を経て、辰彦は日雇い作業員から、誰もが平身低頭するビジネス界の寵児へと這い上がった。
そして千代子を、以前にも増してわがままで傲慢な妻へと甘やかした。
どれだけ好き放題に振る舞おうと、辰彦は常に優しい笑みを浮かべて許してくれた。
人々は口を揃えて言った。
千代子はたった三年の苦労で、誰もが羨む理想の愛妻家を手に入れたのだと。
――あの「花屋の女」が現れるまでは。
結婚記念日、その女が浅田家に花束を届けに来たのが気に食わないというだけで、千代子は人を雇って女の店を徹底的に破壊させた。
だが今回ばかりは、辰彦がいつものように低姿勢で機嫌を取りに来ることはなかった。
彼はスマートフォンの電源を切り、姿を消した。
そして自分とあの女の親密な写真がネットのトレンドを埋め尽くすのを、ただ放置した。
ネット中がその話題で持ちきりになり、押し寄せたマスコミの嵐のようなフラッシュが、家の入り口を隙間なく埋め尽くしていた……
* * *
入江千代子(いりえ ちよこ)のこれまでの人生において、最も反逆的だった出来事。
それは、浅田辰彦(あさだ たつひこ)の実家が破産した際、誰もが彼を見放す中、全財産を抱えて彼と駆け落ちしたことだった。
千代子だけは、彼の再起に賭けた。
泥水をすするような三年の生活を経て、辰彦は日雇い作業員から、誰もが平身低頭するビジネス界の寵児へと這い上がった。
そして千代子を、以前にも増してわがままで傲慢な妻へと甘やかした。
どれだけ好き放題に振る舞おうと、辰彦は常に優しい笑みを浮かべて許してくれた。
人々は口を揃えて言った。
千代子はたった三年の苦労で、誰もが羨む理想の愛妻家を手に入れたのだと。
――あの「花屋の女」、安井典子(やすい のりこ)が現れるまでは。
結婚記念日、その女が浅田家に花束を届けに来たのが気に食わないというだけで、千代子は人を雇って女の店を徹底的に破壊させた。
だが今回ばかりは、辰彦がいつものように低姿勢で機嫌を取りに来ることはなかった。
彼はスマートフォンの電源を切り、姿を消した。
そして自分とあの女の親密な写真がネットのトレンドを埋め尽くすのを、ただ放置した。
ネット中がその話題で持ちきりになり、押し寄せたマスコミの嵐のようなフラッシュが、家の入り口を隙間なく埋め尽くしていた……
*
千代子は、群がる人垣をかき分けてようやく抜け出した。
髪も服も乱れたまま、秘書から送られてきた住所へ怒り心頭で向かった。
辰彦を問い詰めてやる腹づもりだった。
だが、ドアを蹴り開けようとした矢先、中から笑い声が漏れ聞こえてきた。
「辰彦さん、早く帰ってなだめたほうがいいんじゃないですか?奥さんが本気で怒って、また世間を騒がせても知りませんよ」
「そうだよな。車をボコボコにしたり、家に火をつけたり……この間なんて、メディアの前で辰彦さんを指差して、安っぽいのがお好みだって毒づいてたしな……」
言い終わる前に、声の主は失言に気づき、ハッとして口をつぐんだ。
グラスがドンと乱暴に置かれる大きな音が、室内の喧噪を一瞬にして凍りつかせた。
男はフッと鼻で笑い、その声には薄い嘲笑が滲んでいた。
「ああ。あの入江のお嬢様より高貴な人間なんて、いるわけがないだろう?
十八の時、親の援助も実家の財産も全部捨てるなんて言って、実の父親をショックで入院するほど激怒させ、浜野から駆け落ち同然で、無一文の俺のボロアパートに転がり込んできたんだよ。
最近、俺が頭痛で参ってるのを見て、典子が気を利かせてリラックス効果のあるラベンダーを贈ってくれただけなのに、あいつはヒステリーを起こして典子を安っぽい女呼ばわりした。
じゃあ、あいつはいったい何なんだ?自分をタダで安売りした女かよ?」
数日前まで優しくなだめてくれていた声が、今は胸をえぐるような冷酷な言葉を放っている。
千代子はその場に足が縫い止められたように立ち尽くした。
室内の空気も一瞬にして張り詰めた。
しばらくして、誰かが愛想笑いを浮かべてとりなした。
「辰彦さんまで怒りに任せてそんなこと言わないでくださいよ……奥さんが一人で北上して、自分の全財産を投げ打って、辰彦さんと二人三脚でゼロから今の地位を築き上げたことなんて、誰だって知ってますって。お二人は東都でも有名なオシドリ夫婦じゃないですか……」
言葉は途中で遮られた。
「怒りに任せて言ってるんじゃない」
辰彦の横顔は薄暗がりに沈み、指先に挟まれた煙草の赤い火だけが、瞳の奥にある冷淡さと疲れを映し出していた。
「俺は本当に、もう疲れたんだ。
あいつが出してくれた二億のせいで、付き合って三年、結婚して四年、丸七年愛し続け、なだめすかしてきた。
喧嘩するたび、どちらが悪かろうと、最後は俺が頭を下げて謝らなきゃならない。
取引先の娘が俺をチラッと見ただけでヤキモチを焼き、俺は莫大な違約金も顧みず、数億の契約をフイにした。
夜中に栗羊羹が食べたいと言い出せば、どしゃ降りの雨の中を車を飛ばして買いに行った。たとえ三日徹夜して一睡もしてなくてもな……」
大きく息を吸い込み、冷たく言い放った。
「俺だって人間だ。疲れるんだよ」
そこで言葉を区切り、目を伏せた。
「……過労で道端に倒れたあの日、俺を病院へ運んでくれたのは典子だった。二日二晩、付きっきりで看病してくれて、疲れが和らぐようにとずっと頭をマッサージしてくれた……
家ではいつも俺が世話をする側だった。だが、典子のそばでは……久しく忘れていた、家庭の温もりと、安らげる時間を取り戻せた気がしたんだ……」
ぽつりともらしたその言葉は、重いハンマーのように千代子の心を打ち砕いた。
そのあとの会話は、もう耳に入ってこなかった。
今年の冬は肌を刺すように冷たい。
ふらふらと家に帰り着いて初めて、手足がとうの昔に凍えて麻痺していることに気がついた。
家の中は照明が落ちていた。
月明かりが差し込む暗がりの中、かつて愛の証だと信じていた品々が部屋を埋め尽くしているのを、ただ静かに見つめた。
ギネス記録を塗り替えた盛大な結婚式の写真、目が眩むほど高価な宝石の指輪、お百度参りして手に入れた縁結びのお守り……
辰彦が事業を立て直して最初にしたことは、かつて千代子に我慢させた分を、何百倍、何千倍にして返すことだった。
贅沢に慣れきった千代子でさえ、やり過ぎだと感じるほどだった。
しかしあの時の辰彦は、愛おしそうに唇にキスをして言った。
「俺と一緒にたくさん苦労してくれたね。君にはどんなに尽くしても、まだ足りないくらいだよ。分かっているだろう?
君を、昔以上にお姫様のように甘やかしたいんだ。ヤキモチを焼いたら文句を言えばいい。わがままを言って当たり散らしてもいい。俺の前では、いつだって好き勝手にしていいんだ。俺がずっと甘やかして、味方でいるからな。分かったかい?」
あの瞬間の甘い温もりを、千代子は今でも覚えている。
だから結婚してからの四年間、ずっと味方でいるという言葉に甘え、愛される女の子たちが皆そうするように、わがままを言い、腹を立ててみせた。
だが、夢にも思わなかった。
四年が経ち……辰彦が疲れたとこぼし、別の女のところで家庭の温もりを感じていたなんて……
あろうことか、あの典子をかばうためにあんな言葉まで口にするとは。
「じゃあ、あいつはいったい何なんだ?自分をタダで安売りした女かよ」
昔、どれほど多くの人にそう陰口を叩かれても、何とも思わなかった。
しかし今、辰彦の口からその言葉を聞かされ、胸を力任せに引き裂かれたような痛みが走った。
長年育んできた深い愛情も、ある日突然腐り落ちてしまう。
ならば、自由にしてあげよう。
喉の奥にこみ上げていた嗚咽を飲み込み、秘書に電話をかけた。その声は、恐ろしいほど静かで淡々としていた。
「離婚届を用意してちょうだい。あとの手続きは任せるわ。それから、飛行機のチケットを一枚……来月、浜野へ戻るから」