裏切りの夜を抜けた第2話
第2話は約2,037文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
電話を切ると、全身から残りの気力さえも抜け落ちてしまったようだった。
その夜は、一睡もできなかった。
秘書は仕事が早く、翌日には離婚届を用意してくれ、いつものように辰彦の動向を報告し始めた。
「旦那様は、安井様の花屋が荒らされたお詫びとして、繁華街の一等地にある店舗を契約されました。
さらに、安井様のご家族を湾岸の高級タワーマンションへ移し、生活費として六千万円をお渡しになったそうです」
秘書は千代子の顔色を窺い、ためらいがちに言葉を継いだ。
「ここ数日のネットの炎上ですが……どうしても火消しができません。メディアがこぞって書き立てておりまして……
旦那様は、その安井様に対し、どうやら特別な感情を抱いているのではないかと」
震える指先から力が抜け、ペン先が離婚届の上に無残なインクの染みを作った。
……もみ消せない?
以前、ある新聞社が根も葉もない噂から自分の醜聞を報じた時は、トレンド入りしてわずか三分で削除された。
その新聞社の社長もろとも、容赦なく法的責任を追及され、会社ごと潰されたのだ。
それなのに今は、自分の名前が悪妻という言葉とともに三日三晩ネット上に晒され、叩かれ続けているにもかかわらず、何の対応もとられていない。
誰がそれを黙認しているのかなんて、痛いほど分かっていた。
空気が急激に重みを増し、息苦しさが胸を圧迫する。
「分かったわ」
爪が手のひらに深く食い込む。血が滲むような痛みを堪えながらも、必死に平静を装った。
「これからは……そういう報告はしなくていい」
秘書はハッとして、頷いた。
室内に再び静寂が戻った。
千代子は一人、長いこと椅子に腰掛けていたが、やがて立ち上がり、報告にあった新装開店の花屋へと向かった。
今日が、まさにその開店日だった。
店先には色鮮やかな花々が飾られ、客足が絶えない。
かつて自分が滅茶苦茶にした古ぼけた小さな店に比べ、規模も大きく、内装も洗練されている。
人垣の隙間から、一目で辰彦の姿を捉えた。
電話の電源を切って無視を決め込んでいた男が、今は典子の隣で底抜けに優しい顔をして立ち、耳元にかかったおくれ毛を愛おしそうにかき上げてやっている。
典子の瞳には甘い慕情が溢れていた。
辰彦にすがりつこうとした瞬間、歩み寄る千代子の姿を目ざとく見つけた。
だが、その目には微塵も後ろめたさはなく、むしろひどく物分かりの良さそうな様子で、隣の男の服の裾を引いた。
「辰彦さん、千代子さんがいらっしゃったわ。早く一緒に帰ってあげて。ここは私一人で大丈夫だから」
そう言って、背後からみずみずしい真紅のバラの花束を取り出し、千代子に差し出した。
「千代子さん、この前は私の配慮が足りず、あなたにもお花を贈るのを忘れていたせいで、誤解を招いてしまいました。
今回は特別に見繕って包ませていただきました。これ以上、辰彦さんに腹を立てないであげてくださいね」
その瞳は清らかで優しげでありながら、どん底から這い上がってきたような芯の強さを帯びていた。
まさにその態度が、千代子をどこまでも理不尽な悪女に仕立て上げていた。
千代子は冷ややかな視線を落とすと、容赦なく花束を傍らのゴミ箱に放り捨てた。
「悪いけれど、こんな安物の花は好きじゃないの」
言い終わらないうちに、手首を乱暴に掴まれた。
辰彦は声を押し殺し、隠しきれない疲労を滲ませた口調で言った。
「今日は典子にとって大切な日なんだ。いい加減にしてくれないか」
胸の奥に広がる苦いものを押し殺し、千代子は無理に笑みを作って、手にしていた紙を辰彦の目の前に突きつけた。
「いいわよ。これにサインしてくれたら、すぐに出て行くわ」
辰彦は突きつけられた紙に目を落とし、眉をひそめた。
「また何を企んでいるんだ?」
「別に」
千代子は少し間を置いた。
「喧嘩するたび、いつもプレゼントを買って機嫌をとってくれたわよね?
今回は、これが欲しいの。サインしてくれたら、もう騒がないわ」
その声があまりにも静かだったためか、辰彦の目に一瞬、驚きが走った。
だが、彼が口を開く前に、店外からどっと喧噪が巻き起こった。
どこで情報を嗅ぎつけたのか、記者たちが大挙して押し寄せ、店の入り口をすっかり塞いでしまった。
典子は人波に揉まれ、困惑の表情を浮かべている。
辰彦の意識は一瞬にしてそちらへ向いた。
紙の中身も確かめず、適当にサインを書き殴って千代子の胸元へ押し返すと、大股で外へ飛び出し、典子をかばうように抱き寄せて声を荒らげた。
「警備員!」
典子を守るのに必死で、千代子もまた記者たちに取り囲まれていることには、微塵も気づいていなかった。
フラッシュの光で目が眩む。
混乱の中、誰かに突き飛ばされ、千代子は無様に地面に倒れ込んだ。
背中に激痛が走り、思わず声が漏れた。
「辰彦……」
次の瞬間、その叫びは人々のざわめきに掻き消された。
辰彦が典子を大切そうに車に乗せ、一度も振り返ることなくドアを閉めるのが見えたからだ。
車はエンジンを激しく唸らせて、猛スピードで走り去った。
一瞬の躊躇いもなかった。