裏切りの夜を抜けた第3話
第3話は約2,066文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のうち最後の章です。第4話は公式アプリで続きます。
辰彦は千代子を見捨てた。
四年前の結婚の時、あんなに固く真摯に誓ってくれたのに。
「千代子、俺がいる限り、君には決して悲しい思いはさせないよ。
俺にとって、君はいつだって一番なんだ」
だがたった四年で、その誓いは破られた。
胸の奥からこみ上げてくる惨めさ。
千代子は歯を食いしばり、背中の焼けるような痛みに耐えて立ち上がると、フラッシュと容赦ない質問を浴びながら、逃げるようにその場を後にした。
帰宅した途端、こらえていた涙があふれ出した。
暗闇の中でどれくらい座り込んでいただろうか。やがて、玄関のドアが開く音がした。
ソファでうずくまっている千代子の姿を見つけ、続いて服の背中に血が滲んでいるのに気づいた辰彦は、顔をしかめた。
「背中をどうしたんだ?」
慌てて駆け寄り、使用人に向かって声を荒らげた。
「これほどの怪我だぞ!なぜすぐに知らせない?早く救急箱を持ってこい」
そう怒鳴ってから、今度は心配そうに千代子を見つめた。
「あの時、外で転んだのか?なぜ俺を呼ばなかったんだ……」
「呼んだわよ。聞こえなかったの?」
千代子の声は静かだった。
辰彦は言葉に詰まり、後ろめたさと動揺で目を泳がせた。
「すまない。あの時は人が多すぎて、聞こえなかったのかもしれない……」
こめかみを揉み、声のトーンを落とした。
「今日の記事はすべてもみ消しておく……今回の喧嘩は、これでおしまいにしよう。
明日、奥村のおじさんが一緒に食事でもと誘ってきた。おそらく契約更新の件だろう。君に似合いそうなドレスをいくつか見繕っておいたから、後で選んでみてくれないか?」
彼が軽く手で合図すると、背後に控えていた使用人が、高級ドレスの収まった箱をいくつも運び入れてきた。
千代子はそれをじっと見つめていたが、今回は何も言い返さず、ただ静かに頷いた。
「分かったわ」
奥村和男(おくむら かずお)は千代子の両親の旧友であり、ここ数年、何かと気にかけてくれていた。
千代子自身も、和男に話しておきたいことがあった。
食事の場所は、五つ星ホテルの個室だった。
席上は和やかな笑いに包まれ、辰彦は時折千代子の皿に料理を取り分け、温かいお茶を注いでやる。
端から見れば、誰もが羨む良き夫だ。
ところが食事の最中、その平穏はけたたましい着信音によってぶち壊された。
辰彦が電話に出る。
相手が何と言ったのかは分からないが、顔色をサッと変え、失礼とだけ言い残して足早に席を立った。
千代子はその後ろ姿には目もくれず、箸を置いて向かいに座る和男に目を向けた。
「おじ様、来月でアサダ建設との契約が切れますが、もう更新していただかなくて結構です。
辰彦とは離婚することにしました。来月には……浜野へ戻ります」
個室は水を打ったように静まり返った。
しばらくの沈黙の後、和男は気遣わしげに尋ねた。
「本当に、いいんだね?」
千代子が頷くのを見ると、長いため息をつき、隠しきれない安堵の色を目に浮かべた。
「千代子ちゃん、ようやく目が覚めたんだね!
昔、あの巨大プロジェクトを彼に任せたのは、君が苦労するのを見ていられなくて、一肌脱いだだけなんだ。でなければ、当時の彼の立場で、たった三年で今の地位に登り詰められるはずがない。
浜野へ帰ると知ったら、ご両親もきっと喜ぶだろう」
父親である入江東輔(いりえ とうすけ)のことを思い出し、千代子は思わず目頭が熱くなった。
駆け落ちしたあの日、東輔は怒りで血圧が上がって倒れ、病院に運ばれた。
それ以来、今日に至るまで絶縁状態が続いている。
今回戻ったら、父親にきちんと頭を下げて詫びよう。
和男は用事があると言って先に席を立った。
千代子が見送りに出ようと部屋を出た矢先、ホテルのマネージャーが血相を変えて駆け寄ってきた。千代子の姿を見るなり、地獄で仏にでも会ったかのように、すがるような声で訴えた。
「奥様、大変です!浅田社長が他のお客様と大立ち回りを起こされ、誰も止められないのです。早く来てください!」
千代子はハッとして、慌てて後を追った。
一階へ降りると、すでに黒山の人だかりができていた。人々の視線の先を追うと、ロビーの中央に辰彦の姿があった。
パリッとしたスーツ姿とは裏腹に、その動きは荒々しく容赦なかった。見知らぬ男を壁に押さえつけ、何度も拳を叩き込んでいる!
辰彦がこれまでの人生で唯一暴力を振るったのは、四年前の会食で千代子が酒を強要され、体を触られそうになった時だけだ。
しかもあの時でさえ、警告代わりに数発殴った程度だった。
今回は、相手を殺しかねないほどの狂気だった。
千代子は止めようと駆け寄り、その腕を掴んだ。
「辰彦、やめて!殺す気?」
次の瞬間、すがりついた手は乱暴に振り払われた。
力が強すぎたせいでよろめき、背中を激しく壁に打ち付けた。昨日の擦り傷が焼けつくように痛み、一瞬目の前が真っ暗になった。
しかし体勢を立て直す間もなく、細身の影が彼女の横を通り抜け、激昂する男の腕にすがりついて震える声で哀願した。
「辰彦さん、もう十分よ……!軽く触れられただけだから。私のために怒ってくれてありがとう、もうやめて!」