遅れて来る春に抱かれて第1話
第1話は約2,019文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
すみれは「白血病」を患う恋人の遼介を救うため、何度も自分の血を差し出してきた。だがある日、彼が健康そのものの姿で、初恋の紗英と一緒にウェディングドレスを選んでいるのを目撃してしまう。
「彼専用の血液バンクは、もうとっくに私のものになってるのよ」紗英が投げつけたのは、ガラス片の散ったトウシューズだった。
遼介もまたすみれにそれを履かせ、「踊ってみろ」と迫る。
足裏が切り裂かれたとき、彼の「心配そうな演技」は、招待客の目を欺くためのものにすぎなかった。
「代役が愛を語る資格なんてある?」すみれは空の輸血パックを揺らし、告げる。
「この病院はうちのものよ。彼が病気を装っていたのは、すべて私のためなの」
その録音を隠し持ち、すみれは初恋の蓮と結婚する決意をする。かつて「盲目の少年」だった彼はすでに視力を取り戻し、二千億もの結納金を用意して三年間彼女を待っていたのだ。
結婚式当日。遼介は両親を人質にすみれを脅すが、山道での逃走劇は蓮のヘリに阻まれる。
事故の後、神谷家は破滅し、泥にまみれて膝を折った遼介を背に、すみれは蓮が差し出す代々受け継がれてきたバングルを受け取り、唇を重ねる。
「遼介、今度こそ、私の世界から消えて」
* * *
「沢井さん、あなたの体の状態からすると自然妊娠の確率はかなり低いですね」
医師の声はどこか惜しむようで、彼女の腕に残る針跡や青あざを見て、それ以上は言葉を続けなかった。
沢井すみれ(さわい すみれ)はうつむき、指先を震わせながら無理に笑みを作った。
「ありがとうございます……」
声を出した瞬間、喉の奥に苦いものが込み上げてくる。
――妊娠できなかったらどうしよう。神谷遼介(かみや りょうすけ)はまだ子どもの臍帯血を待っているのに。
医師は体を整えるようにといくつか助言してくれたが、すみれの思考はすでに遠くへ飛んでいた。
一年前、遼介が白血病と診断され、しかも重度の貧血を抱えていると知ったあの日から、すみれの世界は一変した。
二人とも極めて珍しい血液型だった。
だから彼の病を知った瞬間から、彼女は自ら望んで「彼専用の血液バンク」となった。
そして臍帯血が治療に有効だと聞けば、必死になって妊娠を望んだ。
なのに……その道すらも閉ざされようとしていた。
力なく医師の部屋を出たとき、見覚えのある姿が視界に飛び込んできた。
――遼介?
声をかけようとした瞬間、すみれは固まった。
紺色のスーツに身を包み、足取りも堂々とした遼介。そこには病人の面影など欠片もない。
しかも彼の隣には、病院のパジャマを着た女性が寄り添っていた。
曲がり角で、その女性が顔を上げ、すみれと視線がぶつかる。
息が止まった。
白川紗英(しらかわ さえ)――遼介が今も忘れられない初恋の女。
慌てて二人を追うと、遼介は紗英を病室へ入れて外に出てきた。すぐに秘書が駆け寄る。
「昨日、すみれから採った血は、紗英に輸血したか?」
秘書はすぐに頷く。
「昨夜すぐに処置しました」
「来週の結婚式……準備は整ったか?」遼介の声は冷ややかだった。
「整っております。ただ……本当に紗英さんと結婚なさるのですか?」
――結婚?
すみれは目を見開いた。
「紗英が病気になってから、最後の願いはウェディングドレスを着ることだった。だから叶えてやる」遼介の言葉は鋭い刃のようにすみれの胸を裂いた。
「じゃあ……すみれさんのことは?」
「知ったところでどうなる。俺にとってはただの代役だ」
足元が崩れるような感覚に、すみれはその場に膝をつきそうになった。
三年前。結婚から逃げ出した彼女は事故に遭い、血まみれで倒れていたところを遼介に救われた。
その端正すぎる顔に見惚れ、思わず口走った。「あなた、神様なの?」
彼は笑って返した。「どうしてわかった?」
目が覚めてからのすみれは、彼を必死に追いかけた。一か月以上も片思いを続け、ついには彼のオフィスへ押しかけ告白した。
遼介は一瞬、遠い誰かを思い出すように彼女を見つめた。
「君は、元カノにそっくりだ。俺と付き合うと辛いぞ?」
当時のすみれは迷いなく答えた。「代役でもいい。私を好きにさせてみせる!」そう言って背伸びをし、彼に口づけた。
その日から遼介は一見、何一つ不自由させなかった。欲しいものは何でも与えてくれた。
三年の愛情は、少なくとも「好き」に近いものだと信じていたのに。
実際には、この一年間ずっと――彼は紗英のために偽りの病を演じ、すみれを騙してきたのだ。
すみれはその場にしゃがみ込み、腕に顔を伏せて泣き崩れた。血を抜かれ続け、薬膳を無理に飲み続けた体中の痕が、今はすべて自分の愚かさを嘲笑っているようだった。
その血は結局、紗英の体に注ぎ込まれていたのだ。
けたたましい着信音が彼女を現実に引き戻した。
画面には【お母さん】の文字。
嫌な予感に胸を掴まれながら電話を取る。
「すみれ!三年の期限が迫ってるの。篠原家のあの目の見えない……」
「言わなくていい。……私、嫁ぐから」すみれは震える声で遮った。