遅れて来る春に抱かれて第2話
第2話は約1,375文字で、このサイトに収録された3章の冒頭章のひとつです。
電話口からすみれの母、沢井典子(さわい のりこ)の声が弾んで聞こえてきた。
「すみれ!ようやく考え直したのね!それで、いつ戻ってくるの?」
スマホを握る指先に力が入り、すみれは一週間後に控えた遼介と紗英の結婚式を思い出す。
そして、自嘲気味に口角を上げた。「……一週間後に」
家族にとって自分はただの政略結婚の駒。金のためなら盲目の御曹司にでも差し出す。そうして逃げ続けて三年。結局、自分の意志でその檻に飛び込むことになるとは……
すみれは病院のベンチで夜までぼんやり座り込み、ようやく帰宅した。
玄関に入ると、家政婦が栄養たっぷりの薬膳スープを差し出してきた。
甘ったるい匂いが鼻に刺さり、吐き気が込み上げる。
思わず手を振り払うと、器は床に落ちて砕け散った。
破片が足首に当たったとき、背後から遼介の声がした。
「誰だ?すみれを怒らせたのは」
振り返ると、彼はだぶだぶの部屋着に帽子をかぶり、わざと顔色を悪く塗り作っていた。昼間、病院で見たきりっとした雰囲気とはまるで別人。
すみれは鼻で笑った。変わり身の早さに呆れるしかない。
「飲みたくないだけ」
そうつぶやいた途端、遼介は彼女の腰を抱き寄せる。「なら飲まなくていい」
すっと近づいてきた彼の顔に、すみれは思わず手を添えた。
一目惚れしたあの日から変わらない整った輪郭。わざと醜く見せても隠しきれない。
「ブサイクね」わざと語尾を伸ばし、喉を震わせる。「嫌いになりそう」
「すみれ!」遼介の体がびくりと固まり、慌てて自分の顔を撫でた。
「そんなこと言うな……病院では移植の準備が進んでるんだ。俺は必ず元気になる」
彼の震えるまつげを見つめながら、すみれは笑った。「冗談よ」
それでも遼介の不安は消えない。今日はやけに様子がおかしいと感じていた。
彼は彼女の手を強く握りしめ、断言する。「すみれ、もう少しだけ待ってくれ。必ずよくなるから」
そう言ってポケットから取り出したのは、青い宝石が光るネックレス。
「三周年、おめでとう」
――忘れていた。今日は二人が付き合って三年の記念日。
自分ですら忘れていたのに、彼は覚えていたのか。
もしかして、本当に少しは自分を想ってくれているのか……
胸が揺れるすみれをよそに、遼介はにやりと笑った。「もうひとつプレゼントがあるから。取ってくる」
席を外した瞬間、テーブルに置かれた彼のスマホが光った。
無意識に画面を開いてしまう。そこには――二人が付き合い始めた頃のキス写真と共に表示されたリマインダー。【紗英を取り戻してから三年】
胸の奥が鋭く刺される。
可笑しくて、惨めで、ただ呟くしかなかった。「紗英を取り戻して……紗英を取り戻して……」
「すみれ、見て!」
遼介の声に慌てて画面を閉じ、平然を装う。
差し出されたのは白いドレス。
手の込んだ仕立てオーダーメイド。どこかで見覚えがあるが思い出せない。
「気に入ったか?」彼が頬に口づけしてくる。
「……ええ」そっと顔をそらす。「私からもプレゼントがあるの」
「何だ?」
「一週間後にわかるわ」
甘く微笑みながら、心の中でつぶやく――あなたと紗英には永遠の幸せを。私とあなたは、この先もう一生交わらない。
遼介が再び唇を寄せようとした瞬間、スマホが鳴った。
画面には【紗英】の二文字。
通話を終えた遼介は何事もなかったように振り向いた。
「すみれ。もうすぐ紗英の誕生日なんだ。一緒に来てくれ」